榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

直ちに読むべきクロダノミクス徹底批判の書・・・【山椒読書論(285)】

【amazon 『日銀発金融危機』 カスタマーレビュー 2013年9月21日】 山椒読書論(285)

日銀発金融危機』(志賀櫻著、朝日新聞出版)は、上は一国の総理から下は我々庶民まで、我が国の金融政策に関心を持つ者であれば、直ちに目を通すべき書である。

その理由は、3つある。第1は、日本ならびに海外諸国の過去25年間の経済政策史のポイントを知ることができるからである。第2は、これらの歴史の経緯の表面的なことにとどまらず、裏面まで知ることができるからである。大蔵官僚として政策に直接携わった著者ならではの強みが、存分に発揮されている。第3は、「では、今、必要な政策は何か」という問いに、率直に答えているからである。

一国の経済政策の中核を成すものは、財政政策と金融政策の2つである。この25年間に連続的に起きた世界規模の経済危機の実態は金融危機であり、その原因はマネーの暴走によるものであったのだ。

「アラン・グリースパンは、ITバブルの崩壊に際して金融を大幅に緩和してうまく対処するなど、(FRB)議長に在籍中は名議長として神の如くに崇められていた。アメリカ経済の成功の象徴であるかのようでさえあった。しかしながら、リーマン・ショックを経て、偶像は地に墜ちた。グリーンスパンが高く評価していたファイナンス理論に基づく新しい金融商品が、リーマン・ショックの原因の一部をなしていたことが明らかにされていったからであるし、そもそもリーマン・ショックそのものがグリーンスパンによる金融緩和策の失敗が原因であったことが明らかにされてきたからである。なかんずくグリーンスパンが激賞していたデリバティブ商品であるCDS(クレディット・デフォルト・スワップ)が、リーマン・ショックの原因となっていたことが大きい」。著者の指摘は鋭く、辛辣である。

「『グリースパン・プット』という言葉があるくらいである。その意味は、失敗して大損を出してもグリーンスパンがじゃぶじゃぶの金融政策で損失を補てんしてくれる(から<空>安心である)というものである」。著者は、「グリーンスパン・プットは、『グリーンスパン・バーナンキ・プット』と言われることもある。そのうちに『バーナンキ・クロダ・プット』という新語も見られるようになるかも知れない」と危惧しているのだ。

「ベン・バーナンキなどのニュー・ケインジアン(国際マクロの理論的到達点をベースにして、『裁量的経済政策(景気調整を目的として政府が裁量で実施する政策)』の復権を目指している)は、従来の標準的な教科書に書いてある理論を基にして経済の現状の分析と処方箋を描くから、適切な結論を導くことができない」。「奔流のようなマネーが、実物経済にプラスの効果を持つことは一切なく、ただひたすら金融システムを危機にさらして、結果的にマイナスの効果を持つという状況を分析するフレームワーク(枠組み)を、ニュー・ケインジアンは持っていない」からである。

「ゼロ金利や量的緩和政策からの『出口政策』ということは非常に難しいことである。これはQE3からの出口を模索するバーナンキFRB議長の苦衷を見ても明らかである」。

「本来の資本主義の原動力である金銭に対するあくなき欲望は、よく言えばアニマル・スピリッツであり、その悪の側面を言えばグリード(強欲)である。マネー・ゲームに狂奔し始めた『資本主義の精神』は、グリードの側面がむき出しになっている」。「金融は経済の血液である。狂奔するマネー・ゲームによって暴走を始めたマネーは、その血液の循環システムを破壊する」のだ。

「1998年に金融監督庁(のち金融庁)が大蔵省から切り離されたその日にマーケットは日長銀の襲いかかった。日長銀の株価は2円まで低下して、日長銀はマーケットに引きずり倒された。この年のうちに日長銀は国有化された。金融監督庁の設立に際して、筆者は国際担当参事官として金融監督庁の設立の幹部メンバーであった」。「日長銀が国有化されてみると、日本の惨憺たる金融機関の中でも突出して傷んでいるのは日本債券信用銀行(日債銀)であることが、誰の目にも明らかとなってしまった。これを放置しておくと、日本の金融監督当局の信頼性は失われる。世界各国の金融監督当局は、日本発の世界金融システムのメルトダウンに直面して、顔色を失っていた。・・・柳沢伯夫金融担当大臣はまだ発令前であったが、電話で(国有化の)相談をすると、即座に『やろう』と言ってくれた。・・・野中官房長官もその場で『ゴー』を出してくれた。最後は小渕首相であるが、官邸に行けば目立つので、国会審議中の院内の小部屋で了承をとった。首相は『野中官房長官がいいというならそれでいいよ』と言う。これも即決であった。柳沢大臣は、『志賀クン、小渕内閣は実は野中内閣なんだよ』と言った」。――この現場に立ち会った人間にしか分からない緊迫感も、この本の魅力である。

黒田日銀批判――方法論的批判と政策論的批判――は、痛烈かつ徹底的である。それだけに読み応えがある。「ほとんどバーナンキのコピーのようにも見える」「黒田リフレ政策は誤りであって、副作用を伴う有害無益な裁量的政策措置を、無理矢理発動しているに過ぎない」。返す刀で、「そもそもアベノミクスの3本の矢というアイデアが、非常に脆弱なものである」と切り捨てている。

読者が一番知りたい「黒田リフレ策を否定するのであれば、どうすればよいと言うのか」という問いに対する著者の回答は、何と、「何もするべきでない」というものである。「打つ手はないのだからじっとしているのに限る。突発的な事象に際してのみ臨時の応急措置をとればそれで足りるのであって、じたばたと余計なことをしてさらに事態を悪化させるよりはましである」。「日銀による金融政策は、(前総裁の)白川日銀のレベルにまで後退させるのが適当である。それとも座して死を待つよりは、前に出るべきなのであろうか。帝国海軍はそう言って真珠湾に連合艦隊を送ったことを思わずにはいられない。最終的な審判は後世の経済史家が下すことになるからそれを待つしかない、にしてもである」。――何もしないでも、そのうちに上向きになるから、それを待て、というのだ。

この結論では、あまりに寂しいではないかと思っていたら、「あとがき」にこうあるではないか――処方箋はある。ただし、厄介なことには、経済がグローバル化した今日においては、考えられる処方箋は一国の経済政策の枠組みの内にはとどまらない。国際協調による、グローバル・プルーデンシャル・レギュレーション(国際的な金融機関や市場の健全性維持)と、グローバルな協調によるかなり緊縮的な金融政策である。

著者の主張に賛成か否かを問わず、広く読まれるべき警告の書である。