榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ナチス賛同者から、戦後、ナチス抵抗者に鞍替えした日本のドイツ文学者・・・【情熱の本箱(208)】

【ほんばこや 2017年9月20日号】 情熱的読書人間のないしょ話(208)

文学部をめぐる病い――教養主義・ナチス・旧制高校』(高田里惠子著、松籟社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)には、心底、驚かされた。

私が大学1年の時、大きな影響を受けた『車輪の下』(ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳、新潮文庫)の訳者・高橋健二が、戦争中はナチス文学を積極的に翻訳紹介しながら、戦後はナチスに抵抗したドイツ人作家たちの翻訳者に転じた人物だと告発されているからだ。著者の高田里惠子は、当時の変節漢たちの代表選手として高橋に焦点を合わせているのだが、高橋という人物が東京帝国大学文学部独文科における「二流の人間」だったことが、大きく影響していると断言している。

高橋と独文科の同期生たちや周辺の人物との複雑な関係を糸口に、彼らと旧制高校、教養主義との関わりに対する鋭い考察が展開されていく。

「旧制高校生の教養主義とは読者の態度を指す言葉である。それが受動的あるいはディレッタント的と批判される所以であるが、しかし、謙虚で上質な読者は、書きたがり屋だが才能のない(高橋のような)文学青年よりよほど文化への貢献度は高いと思われる(こうした読者の消失こそ、現在叫ばれる『教養の危機』の本質であろう)」。透徹した指摘である。

「今こそ、われわれドイツ文学者は、ナチス文学・文化についてもっと知りたいという一般読者の気持ちにこたえなければならぬ、『既に欲求は高まっている。今は行為が待たれているのである』と高橋健二は力説する」。

「『ドイツ戦歿学生の手紙』は、ナチス政権の成立とともに普及版が出された。高橋健二が抄訳したのはこの普及版のほうであり、新たに付け加えられた編者序文には、ナチス・ドイツへの賛同と、若い学生たちの死がこの新生ドイツ誕生のための尊い犠牲死であったことがはっきりと記されている」。

「(東京帝国大学独文科の1年後輩で、『ビルマの竪琴』で知られる)竹山(道雄)は『憑かれた人々』というエッセイのなかで、ナチスのために旗振りをした(高橋のような)日本のドイツ文学者たちを半ば茶化しながら、彼らがお人好しで無防備であったが故にそのような行動に出てしまった様子を描きだす。竹山は意図的に、彼らをはじめから箸にも棒にもかからない二流の人間として描いており、弁護を買って出るほどの関心をもっていないように見える」。

「高橋健二が強調する、祖国あるいは軍部のあり方に疑問をもちつつ戦争に協力しなければならなかった高学歴者たちの苦悩・・・」。事後の言い訳に過ぎない。

「高橋健二は、自らの『抵抗』がファシズムへの曖昧で明るい協力となってしまったことにまったく無自覚であった。・・・高橋健二は自分自身をあくまで『引きずりこまれ』、そして『ベストをつくした』ほうと信じるがゆえに、決して『教訓』を残すことはないし、反省とは無縁である」。

「(高橋は)伊藤整の作家らしい波瀾万丈の人生と自分の人生とを比して『私は一高、東大とストレートなコースを通って、すぐに高校の教師になり、職歴に乏しく、定年で大学を退いた。最も単調な歩みをした』と振りかえってみせる」。その鉄面皮ぶりには、ほとほと呆れてしまう。

『車輪の下』から『ペーター・カーメンツィント』『デーミアン』へと私をヘルマン・ヘッセの世界に導いてくれた先達というだけでなく、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテへの目を開かせてくれた恩人として、長らく尊敬の対象であった高橋だけに、本書の衝撃は並大抵ではなく、私を複雑な感情に陥らせたのである。

私の驚きは、これだけでは済まなかった。最終章に登場する中野孝次が、その出身階級に対するコンプレックスを克服しようと苦労の末、東京帝国大学文学部独文科に入ったものの、解消できず、フランツ・カフカを経て『清貧の思想』に至る泥濘(ぬかるみ)のような過程が描かれているからだ。

「中野は、家庭の事情で、と言っても貧しさだけの所為ではなく、大工の家庭には子供に教育を受けさせるという考えじたいが欠けていたからなのだが、中学校に進学できず、専検(専門学校入学者資格検定資格)と呼ばれた試験を経て、ようやく旧制高校に、そして帝国大学にもぐりこんだのである。だが、日本における『車輪の下』の位置を考察したときに触れたように、教育による階級上昇という現象の残酷さを、中野孝次はいやというほど思い知らされることになる。竹山道雄が描くような男同士の友情世界は、出自の貧しさにコンプレックスを抱く中野孝次にとっては、時にはただ屈辱感をもたらすだけのものとなった。重要なのは、専検受験生の中野少年が、われわれが(多少皮肉をこめて)考察してきた旧制高校的なるものに対して尋常でない憧れを抱いていたことである。文化の香り、男と男の友情、弊衣破帽、高下駄やマント、自分もいつかあの世界に入りこむのだという気持ちだけが少年の心を支えていた。貧しさのなかで孤独に受験勉強を続ける少年は、ただ一つの救いにすがりつくかのように教養主義的読書に熱中する。つまり、昭和10年代に復活した旧制高校的教養主義をまずはただ書物によってのみ吸収しようとしていたのだった。だから中野孝次の教養主義は、恥ずかしいくらい(中野じしんが恥じている)純粋なかたちであらわれてしまい、中野が自伝的連作のなかでそのように描いているようにパロディにしかなりえない。ベストセラーになった『清貧の思想』は、かつて中野孝次を魅了し呪縛していた教養主義(=非庶民的西洋文化)に対する、あるいは上級学校に対する遅ればせの復讐であり、出自を裏切ろうとした自分自身に対する処罰でもあったのだ。今ではすっかり人生の説教師の風格を備えた中野孝次の自伝的小説群を、怨念に満ちみちた学校物語として読み直してみること、それがこの章の課題である。中野孝次の復讐心は、教養主義と旧制高校と東京帝国大学独文科から、最後の威厳を奪いとることだろう」。

またまた驚くことに、中野の自伝的小説の中に、我が敬愛する丸谷才一が登場しているではないか。「(国学院)大学の同僚であった英語教師晴田が大学を辞め筆一本の生活に入ったころから、主人公の心に動揺が芽生えはじめていたのだった(晴田のモデルは丸谷才一)。このまま、大学教師というものに安住していていいのだろうか。上級学校に憧れ、学校のなかに生きてきた男が、はじめて学校に疑問をもったのだった。大学教師になったあと、ある程度の生活の安定を得、また翻訳を中心とする仕事上の成功もあって、中野孝次は、長年苦しめられてきた出自に関するコンプレックスからようやく解放される。橋本一明や丸谷才一との競いあいや付きあいも、たしかに今思いかえせば『虚栄心や負けずぎらいに駆りたてられ、精一杯背伸びしている当時の自分を思いだすのは苦痛』といった種類のものであっても、しかし、そこには東大独文科時代の憤懣はもはや存在しない」。

私の興味を掻き立てて已まないカフカまで登場するに至っては、驚きも極まれりだ。「カフカは、中野の個人史においても、また日本のドイツ文学研究史においても、重要な転換点をもたらしたと言えよう。カフカという作家とともに、日本のドイツ文学受容の存り様が大きく変わる。つまり、教養主義の終焉である。独文研究室のなかでつねに違和感をもちつづけたという中野孝次がカフカの『最も早い時期の発見者』のひとりとなりえたのは、偶然ではあるまい。専検受験者のころから中野を呪縛してきた教養主義文化から逃れられたのは、カフカのおかげであろうし、また、カフカ翻訳の仕事の成功が、その後の中野の活躍、小説家にいたるまでの道を切りひらいたことも確かだ」。

私の周りでも、「両親とも本など一切、手にしない家庭で育った」と言う人がいる。そういう人たちが大人になり、独創的な文筆活動を行っているのを目の当たりにすると、やはり、出自よりも本人の努力が物を言うのだという感を強くする。