榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ナチス政権下のベルリンで、ユダヤ人、ドイツ人、日本人はどう行動したか・・・【あなたの人生が最高に輝く時(73)】

【amazon 『いのちの証言』 カスタマーレビュー 2017年1月24日】 あなたの人生が最高に輝く時(73)

粘り強い調査力

いのちの証言――ナチスの時代を生き延びたユダヤ人と日本人』(六草いちか著、晶文社)は、『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(六草いちか著、講談社)、『それからのエリス――いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影』(六草いちか著、講談社)で、森鴎外の『舞姫』のヒロイン、エリスのモデルとなった女性を探し出し、この謎を最終決着させた六草いちかの新著である。本書でも、著者自らが掲げたテーマに肉薄する粘り強い調査力が大きな成果を生み出している。

ドイツ・ベルリン在住の著者の数年に亘る調査から立ち現れてきたのは、ナチス政権下のホロコーストの時代のベルリンにおけるユダヤ人、ドイツ人、日本人の生々しい姿である。

ベルリンのユダヤ人

「かつてベルリンには16万人以上のユダヤ人が住んでいたが、この町で終戦まで生き延びることができたのはわずか6千人ほどである」。生き残ったのは、何と3.75%に過ぎないのだ。

当時のユダヤ人たちが受けた扱いは苛烈極まるものであった。「(ゲシュタポの)男は(ユダヤ人の)母親から赤ちゃんを奪い取り、トラックに向かって叩きつけた。赤ちゃんは絶叫のような声を上げ、すぐにまた静かになった。男が動かなくなった赤ちゃんをトラックの中に放り入れると、母親もようやく乗り込み、トラックは走り去った」。

「ユダヤ人排斥の先ぶれはナチスが政権を握るより前、1920年代にはすでに始まり、1933年ヒトラー内閣が成立するやナチス突撃隊によるユダヤ人経営者の暴行事件が起き、また、全国組織での不買運動なども行われ、徐々にユダヤ人迫害が加速し、ユダヤ人絶滅という最終章に向かう分岐点ともいえる『水晶の夜』事件が起きる。これは1938年11月9日深夜に起きた反ユダヤ主義暴動事件で、町じゅうのシナゴーグやユダヤ系施設が焼き打ちされ、ユダヤ人商店のショーウィンドウがことごとく割られ、商品が略奪された。砕けたガラス片が歩道に散らばりキラキラと反射していたことからこの名が付いた。この事態に反感を持つ市民も少なくなかったが、ナチスは、ユダヤ人店舗に開店禁止、ユダヤ人の手工業の従事禁止、ユダヤ人の文化施設への入場禁止、公立校への通学禁止、出版社の廃業、運転免許証剥奪・・・と立て続けに新たな法令を発布しユダヤ人を締め上げていく」。同様のことは、どこの国でも、どの時代にも起こり得ることを、私たち日本人も銘記しておく必要がある。

ベルリンのドイツ人

ドイツ人の中に、自分の生命の危険を冒してまで、密かにユダヤ人を匿った人たちがいたことに救いを感じる。「ファーター夫人は、階段を下りてすぐのところにある物置を隠れ場所に使うことにし、古ダンスと壁との隙間に(ユダヤ人の7歳の少女)ラヘルの寝床を作ってくれた。夫人は毎日一度、食べ物を運んできては、1冊の絵本を読み聞かせ、トイレ代わりのバケツを取り換え出ていった。ラヘルは暖房もない暗闇に独り、終戦までの5か月を過ごした。ここには電灯はなく、上部の小さな明かり取りも板を打ち付けふさがれていた」。

「『ゲシュタポは、早朝にやってきてベルを鳴らさずドアをノックする』。ユダヤ人の間で次第にそう囁かれるようになるが、(ユダヤ人の10歳の少女)マルギットの家の場合もまったくその通りで、ある朝、6時頃、玄関ドアを叩く音がした。その激しさに家族3人はすぐさま目を覚まし、父親が扉を開ける頃、マルギットも寝ぼけ眼をこすりながら廊下に出てきた。まもなく大きな男が2人入ってきた。ゲシュタポだった」。来る日も来る日も、ドアが激しく叩かれはしないかと不安に苛まれながら過ごす恐怖感はいかばかりだろう。

これらの証言から、当時のユダヤ人たちの切迫した状況がまざまざと浮かび上がってくる。

もし、私自身が、愛する人たちを有無を言わせず奪われたらと想像するだけで、胸が苦しくなってしまう。

生き延びたユダヤ人

運よく生き延びることができたとしても、そのユダヤ人たちの心境は複雑である。「生存者の多くは、あの凄惨な時代を生き延びることができたのは、自身になにか徳があったからではなく。偶然の積み重なりと感じている。そしてなぜ自分だけが生き残ったのかという思いに苦しむ。長い年月をかけて自問を繰り返す中で、自身にできるせめてもの任務は、語り部となることだと決意する人も少なくない」。

ベルリンの日本人

ドイツ人だけでなく、ユダヤ人を救った日本人も存在したのだ。「日本大使館がユダヤ人を救ったと初めて聞いたときは大変驚き、にわかに信じられない気さえしていたが、こうして調べると、当時の邦人たちの間では特別なことではなく、たとえ同盟国という立場にあっても、一人の人間として、目の前の命が消えないよう救いの手を差し伸べていたのだ。杉原千畝氏がユダヤ人たちに何千もの通過ビザを発給したのち、リトアニアからベルリンに退去してきたのは1940年9月5日のことだ」。

古賀守の場合、近衛秀麿の場合、藤村義朗の場合、毛利誠子の場合を読んで、杉原以外にもユダヤ人救済に努めた日本人たちがいたことを知り、ホッとした。

貴重な史料

よく知られているアウシュヴィッツ等の強制収容所やブラック・アースと呼ばれるウクライナでなく、ベルリンで何が行われたのか、そこでユダヤ人がどう扱われたのか、一部のドイツ人はどう行動したのか、そして、日本人はどう行動したのか。本書はこれらを後世に伝える重要かつ貴重な史料となることだろう。