榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

「辞書編纂奮闘物語+恋愛物語+友情物語」は一冊で三通り楽しめる・・・【山椒読書論(30)】

【amazon 『舟を編む』 カスタマーレビュー 2012年5月10日】 山椒読書論(30)

舟を編む』(三浦しをん著、光文社)は、地味ではあるが、感動的な辞書編纂奮闘物語だ。そして、上質な恋愛物語、友情物語でもある。

玄武書房の第一営業部から辞書編集部に異動となった馬締(まじめ)光也は、27歳の名前どおりの真面目人間。辞書づくりという膨大な時間と金がかかる事業に消極的な経営陣が、辞書編集部の人員削減の方針を打ち出したため、馬締と同期入社の西岡は宣伝広告部に移ることになる。その結果、辞書編集部の期待を担う新しい辞書『大渡海』の編纂に当たる正社員は、浅い経験しかない馬締たった一人となってしまう。彼とともに『大渡海』に取り組むのは、辞書づくり一筋の外部の監修者・松本元教授、長らく松本先生とタッグを組んできた先輩社員で今は嘱託の荒木さん、契約社員のヴェテラン女性・佐々木さんだけだ。

「辞書の原稿は少々特殊だ。雑誌に載る記事や小説などとちがって、執筆者の持ち味や文章の個性といったものは、あまり尊重されない。辞書において大切なのは、いかに簡潔に、的確に、見出し語を言葉で説明できているか、だからだ。辞書編集者は、集めた原稿にどんどん手を入れて文体を統一し、語釈の精度も上げていく。執筆者とできるかぎり協議はするけれど、編集者が文章を修正することもある、とあらかじめ了承はもらっている。そのぶんだけ、辞書編集者の負担と責任は大きい」のである。

一方、「宣伝広告部に異動するまでのあいだに、できるだけのことをしようと西岡は決めていた。対外交渉の苦手な馬締のために」。ここから、一見、軽薄という感じを与える西岡ではあるが、友情に衝き動かされた獅子奮迅の働きが始まる。

「馬締の集中力と持続力も、驚くべきものだった。執筆要領を書いたり、用例採集カードを整理したりするときは、西岡が声をかけてもまったく耳に入らないらしい。昼も食べずに、何時間でも机に向かっている。黒い袖カバーが紙とこすれて発火しそうな勢いだ。『最近、ものがつかみにくくなりました』。馬締は笑って言った。資料をめくりすぎて、指紋がすり減ってしまったのだそうだ」。

「馬締は何度も夢想してきた。俺の気持ちに香具矢(かぐや)さんが応えてくれたら、どんなに幸せだろう。頬笑みかけられでもしたら、うれしくて死んでしまうかもしれない」というほど初心(うぶ)な馬締が苦心惨憺の末に手渡した恋文に対する香具矢の意外な行動には、びっくりさせられる。

「俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を」。漸く13年目に若い女性社員・岸辺が加わった辞書編集部の15年に亘る言葉との格闘が報われるシーンは感動的で、自分もその一員であったかのような気がして、つい目頭が熱くなってしまった。