榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

京都帝大関係者はアマチュア考古学者の成功を許せなかった・・・【山椒読書論(219)】

【amazon 『「明石原人」とは何であったか』 カスタマーレビュー 2013年7月16日】 山椒読書論(219)

18年前に読んだ『明石原人」とは何であったか』(春成秀爾著、NHKブックス。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を、急に読み返したくなった。

本書では、1931年に直良信夫が発見した明石人骨を巡る63年間に及ぶドラマが総括されている。

最も興味深いのは、明石人骨を貶し続けた京都帝大関係者たちの内情である。

著者は、「歓迎されなかった『明石人』」の章の「京都帝大学者の無念」の節で、「明石人骨を発見した時に、直良信夫がそれを東京帝国大学でなく京都帝国大学に届けていれば、『明石人』の運命は、もう少し違ったものになっていたことは疑いない」と記している。

「昭和初期という時期をとってみると、日本で化石人類について基礎的な知識、必要な文献をそなえ、最新の情報もはいってくる条件をもっていたのは、実は、松村(瞭)と金関(丈夫)だけであった。二人は親友であると同時に、学問的には競争相手であったのだ。結局、発見当初にライバルの手にわたってしまった明石人骨の存在を認めたくなかったために、目の前にあるというのに、手にとって観察しようとせず、現場の第一印象と人骨の写真だけで(旧石器時代人の化石骨ということを)否定する。そして、後になると、引っ込みがつかなくなり、一層ムキになってその否定にまわらざるをえなくなったのではないだろうか」。著者のこの鋭い指摘は的を射ているのだろう。

「それにしても、直良の存在と明石人骨の発見とを抹殺しようとする京都帝大関係者の異常なまでの執念はどこに由来するのであろうか。それを探らなければ、明石人問題の底をみることはできない。・・・こうして『化石人骨』発見第一号の栄誉は、一人のアマチュアの上に輝いたばかりか、現物はライバルである東京帝大に持っていかれたのである。この時の京都帝大側の研究者たちの無念さも、わかる気がする」。すなわち、直良は京都帝大の化石人骨発見の夢を打ち砕いてしまったのである。

「太古の明石の地に旧石器人あり、と昭和初めに直良信夫さんは確信した。直良さんの見つけた『旧石器』は、いまの目でみれば否定せざるをえない。(空襲で失われてしまった)明石人骨の謎は依然としてのこっているけれども、人類学界では現代人(約1万年前~現在)の骨であるという意見が圧倒的につよい。しかし、西八木で新たに見つかった石器や木製品の出現によって、明石・旧石器人の存在は今や疑いないものになった。直良さんが明石の地に落とした籾は、五十余年後についに実を結んだのである」という著者の「あとがき」を、泉下の直良は何と聞くだろうか。

直良の業績を否定した有力研究者として杉原荘介が登場するのも、興味深い。杉原は、やはりアマチュアであった相沢忠洋の1949年の「岩宿における日本初の旧石器の発見」を自分の業績として発表したその人だからである。