榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

量子力学を巡るアインシュタインとボーアの戦い、その真の勝者は・・・【山椒読書論(301)】

【amazon 『量子革命』 カスタマーレビュー 2013年11月2日】 山椒読書論(301)

量子革命ー―アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』(マンジット・クマール著、青木薫訳、新潮社)は、量子力学に関心を抱いている者たちを知的興奮の坩堝に放り込む。

「アインシュタインの名前は天才科学者の代名詞となったが、もうひとりの主人公であるニールス・ボーアは、当時も今も、それほどの知名度はない。しかしボーアと同時代を生きた科学者にとって、彼はまぎれもない巨人だった」。

「原子の量子論の中核に偶然と確率が潜んでいることに気づいて、アインシュタインは嫌な気持ちになった。彼はもはや量子の実在性を疑ってはいなかったが、それと引き替えに、因果律を犠牲にしてしまったような気がしたのだ」。1917年のことである。

「(ボーアの)講義の日付が1920年4月27日火曜日と決まると、ついにブランクとアインシュタインに会えるとなって、ボーアの気持ちは高ぶった。アインシュタインは、自分よりも6つ年下のこのデンマーク人を次のように評価していた。『彼(ボーア)は間違いなく、第一級の頭脳の持ち主です。きわめて厳密で洞察力があり、大きな枠組みを見失うことがありません』」。「ボーアは、ベルリン駅から大学へと向かいながら、興奮と不安のために胃が痛くなりそうだった。しかしそんな緊張は、ブランクとアインシュタインに会うとすぐに解けてなくなった。ふたりは挨拶もそこそこに物理学の話を始め、ボーアもすっかりマイペースになった。・・・アインシュタインは、大きな目ともじゃもじゃの髪をして、つんつるてんのズボンを穿き、世間との関係はぎくしゃくしていたかもしれないが、自分自身とはうまく折り合いをつけているように見えた」。

「ふたりは互いに、相手が敵対する陣営にいることを知った。それからの数日間、アインシュタインの家で夕食を共にするためにベルリンの街を歩きながら、ふたりはお互いを説得して、考えを変えさせようと努めた」。この時、量子力学を巡る、「物理学の教皇」アインシュタインと「量子の王」ボーアの長く続く、激しい論争が始まったのである。

アインシュタインは1926年12月のボルン宛ての手紙に、「量子力学はたしかに立派な理論です。しかしわたしの内なる声が、まだ本物ではないと告げています。その理論は多くを語りますが、わたしたちを本当の意味で、『神』の秘密に近づけてはくれません。いずれにせよわたしは、神はサイコロを振らないと確信しています」と記した。「かくして戦線は敷かれ、アインシュタインは心ならずも、驚くべき大躍進にヒントを与えることになる。量子の歴史のなかでもっとも重要な進展のひとつ、(ボーアの優秀な弟子・ハイゼンベルクが発見した)不確定性原理である」。後に、ボーアがこのように語っている。「アインシュタインの懸念と批判はわれわれ全員にとって、原子レベルの現象を記述することに関するさまざまな面を再検討するためのインセンティブとして非常に貴重だった」。すなわち、ボーアらの量子力学はアインシュタインの批判によって鍛え上げられていったのである。

「ボーアのイメージする実在は、観測されなければ存在しないようなものだった。コペンハーゲン解釈(コペンハーゲンを本拠地とするボーアが中心となって作った量子力学解釈)によれば、ミクロな対象はなんらかの性質をあらかじめもつわけではない。電子は、その位置を知るためにデザインされた観測や測定が行われるまでは、どこにも存在しない。速度であれ、他のどんな性質であれ、測定されるまでは物理的な属性をもたないのだ。ひとつの測定が行われてから次の測定が行われるまでのあいだに、電子はどこに存在していたのか、どんな速度で運動していたのか、と問うことには意味がない。量子力学は、測定装置とは独立して存在するような物理的実在については何も語らず、測定という行為がなされたときにのみ、その電子は『実在物』になる。つまり、観測されない電子は、存在しないということだ」。アインシュタインとボーアとの間の論争には、物理学の魂ともいうべき「実在」の本性が懸かっていたのである。

「『ボーアの研究所(コペンハーゲン大学理論物理学研究所)はすみやかに量子物理学の世界的中心地となり、昔のローマ人たちの言葉をもじれば、<すべての道はブライダムヴァイ17番地に通ず>という状況だった』と語るのは、1928年の夏にそこを訪れたロシア人のジョージ・ガモフである」。孤高の人、アインシュタインと異なり、ボーアは多くの弟子を育てることに秀でていたのである。

こうした経緯がありながら、「1931年の9月、彼(アインシュタイン)はふたたびハイゼンベルクとシュレーディンガーをノーベル賞に推薦した」のである。

多くの物理学者たちは、「今回(1935年)もまたボーア=アインシュタイン論争の戦場から、勝者として帰還したのはボーアだと考えるようになった。量子力学が非常に役に立つ理論であることはとっくの昔に証明されていた」からである。ほとんどの物理学者たちは、着実に成果を積み上げていく量子力学を使うことで忙しかったのだ。

「量子力学の解釈に関するふたりの論争は、突き詰めれば、実在をどう位置づけるかに関する哲学的な信念にかかわっていた。世界は実在するのだろうか? ボーアは、量子力学は自然に関する完全な基礎理論だと信じ、その上に立って哲学的な世界観を作り上げた。その世界観にもとづき、ボーアはこう断言した。『量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである。物理学の仕事を、自然を見出すことだと考えるのは間違いである。物理学は、自然について何が言えるかに関するものである』。アインシュタインはそれとは別のアプローチを選んだ。彼は、観測者とは独立した、因果律に従う世界がたしかに実在するという揺るがぬ信念の上に立って量子力学を評価した。その結果として、彼はコペンハーゲン解釈を受け入れることができなかった。『われわれが科学と呼ぶものの唯一の目的は、存在するものの性質を明らかにすることである』」。

「アインシュタイン=ボーア論争は、アインシュタインの死をもって終わったわけではなかった」。

現在では、「量子力学は完全だという主張が本格的に疑問視されるようになって、アインシュタイン=ボーア論争ではアインシュタインが敗北したという、従来の判定が見直しを受けている」。この部分を読んだ時、私の目から鱗が落ちた。アインシュタインが負けたとばかり思い込んでいたからである。「ボーアとの論争で決定打を出すことはできなかったものの、アインシュタインの挑戦は後々まで余韻を残し、さまざまな思索の引き金となった」。「しだいに多くの物理学者が、量子力学より深い理論を探すようになっている」。これらの後代の成果を踏まえ、「かつては革命的な考えを次々と打ち出したアインシュタインも、年老いてひびの入った骨董品のようになり、新しい量子力学の考え方についてこられなくなった」といったアインシュタイン像が見直され、名誉回復が進んでいるのである。

本書は、量子力学を巡る、まさに疾風怒涛の書である。