榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『風と共に去りぬ』は、人を愛することの難しさを物語っているのでは・・・【山椒読書論(376)】

【amazon DVD『風と共に去りぬ』 カスタマーラビュー 2014年1月2日】 山椒読書論(376)

久しぶりに、4時間近い長篇映画『風と共に去りぬ』(DVD『風と共に去りぬ』<ヴィクター・フレミング監督、ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、レスリー・ハワード出演、ワーナー・ホーム・ビデオ>)を見て、長いこと、私はこの映画を勘違いしていたことに気がついた。

南北戦争時代のアメリカ南部の大地主の娘、スカーレット・オハラの波瀾の半生を描いたこの作品のテーマは、激しい気性のヒロインが、明日に希望を託して、絶望の中から立ち上がることに象徴されているとする説がほとんどであるが、人を愛することの難しさが真のテーマではないかと気づいたのである。

スカーレットはわがままで自己本位だが、他人に影響されない自分の意見を持っている。また、そういう立場に置かれると、強い責任感を発揮する。その上、商才にも長けている。

しかし、近郊の大地主の息子で紳士的なアシュリー・ウィルクスとの結婚を強く望み、アシュリーが他の女性と結婚した後も容易には諦めない。一方、スカーレットのために危険を冒し、スカーレットを支え続ける無頼漢、レット・バトラーなど歯牙にも掛けない。

南北戦争の南部敗北という大災禍を経て、スカーレットはレットとの意に染まぬ結婚を受け容れるが、依然としてアシュリーのことを思い続けるスカーレットとレットとの結婚生活はうまくいかない。

作品の終末近くになって漸く、スカーレットはレットの愛に気づくのだが、時既に遅く、スカーレットとの不毛な関係に疲れ果てたレットは遠くへ去っていってしまう。

これは、まさに、人を愛することの難しさを物語っているのではないか。この世で一番大切なものは、金や名誉ではなく、愛であり、愛する者のためには何でもする覚悟の恋愛至上主義者の私の、こういう物語の捉え方は間違っているのだろうか。

参考までに、『世紀の名作はこうしてつくられた――「風と共に去りぬ」の原稿発掘から空前の大ベストセラーへ、著者による著作権保護のための孤軍奮闘』(エレン・F・ブラウン、ジョン・ワイリー二世著、近江美佐訳、一灯舎)の映画化に関する部分を見ておこう。

「1939年は『風と共に去りぬ』にとって大きな節目の年となった。1月13日、ヒロイン役をさがして2年半、ついにデイヴィッド・O・セルズニックは、ヴィヴィアン・リーというほとんど無名のイギリス人女優をスカーレット・オハラ役に抜擢したと発表した」。

「ストーリーが短縮されても、映画は原作の語り口や全編に流れる雰囲気を見事に再現していた。だが、原作とは違った描き方をしている点もいくつかあった。その最も顕著な例が、スカーレットの描き方だろう。原作のスカーレットは美人というより個性がクロースアップされており、読み手がスカーレットという人物を受け入れるかどうかで作品を理解できるかどうかが決まるといえるほど、強烈なキャラクターに描かれている。映画のスカーレットももちろん個性的だが、リーの演じるスカーレットは、ハリウッド史上最も美しいヒロインの一人に数えられるほど美しい。また原作は、スカーレット、アトランタ、ジョージア州民の視点から見た南北戦争(南北戦争が終わったのは、ミッチェルが生まれる35年前だった)の3つが重要なテーマとしてほぼ均等に描かれているが、映画ではテーマがしぼられている。そして、人種問題も特筆しておくべきだろう。原作を読まずに映画だけを見た者には、ミッチェルが奴隷制度をどう感じているかは理解できないだろう」。

「このように原作との違いは多々あったが、ミッチェルは映画の仕上がりに非常に満足していた・・・セルズニックも製作スタッフもみな素晴らしい仕事をし、原作に生命を吹き込んで見事な映画に作り上げていると心から感じていた」。