榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

良寛の読書と塵の関係・・・【続・独りよがりの読書論(34)】

【読書クラブ 本好きですか? 2017年11月23日】 続・独りよがりの読書論(34)

外は、良寛。――書くほどに淡雪の人 寸前の時、手前の書』(松岡正剛著、芸術新聞社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)では、他の著述者たちが描く良寛とは異なる良寛が息づいています。

本書は、元々、良寛の書を論じるために書かれています。「良寛は一回性というものを重視した。一回性とは『その時、その場、その限り』ということです。そしてここに良寛の書の真骨頂が見えてくる。きっと良寛はいつも一期一会を繰り返す人だったのです」。

良寛にとっての無常とは、どういうものだったのでしょうか。「(良寛の)生涯の大半は無常との対峙だったとさえいえるほどでした。・・・しかし、それにもかかわらず、僕は良寛が『無常』にかこってはいなかったと思うのです。良寛は『無常』を世間の本質とはみなしていたのですが、自分とは必ずしも重ねあわせていないのです」。「われわれは、良寛を直線的に西行や芭蕉の系譜に結びつけようとしないという幅のある視点をとる必要があるのです」。

良寛が暮らした五合庵が目に浮かびます。「間口が三間あるかなし、奥行はせいぜい二間半、六畳ひと間の敷居にちょっと濡れ縁があり、南面に切妻三尺の小屋根が出ているだけの、まったく質素な五合庵です。僕が学生時代に最初に五合庵を訪れたときは晩春だったのですが、国上寺の方から降りていき、しばらくその小ささに呆然としてしまいました」。

良寛の読書が考察されています。「良寛は小さいころからの読書家です。これまでもいろいろ各方面の読書を三昧したでしょうが、それまでにもまして、五合庵ではかなり自由に読書三昧をした。けれども、読書をしてどうするか。目的などはない。訪ねてきた客に説教するわけでもない。子供たちに教えるわけでもない。かつての同僚の僧たちを凌駕するためでもない。ともかく読書に関しては、ただ坐して読む、それだけです。それは微粒子的な『塵』と同じ動きです。風さえ吹かなければ、塵も動かない。そのときは良寛も動かない。塵が動くときは風が吹く。あるいは良寛が立てば、塵もふっと動いている。それじゃ、良寛も塵も似たようなもの、塵と良寛はちっとも変わりがない。良寛の読書はそういうものだった。良寛が立って、ふうっと舞い上がった塵がまた静かに本の上に落ちる。その塵の落ちた本が、良寛の『想像の遊行』が再開されるところなのです。これは『動いていく読書』です。あるいは『出入りする読書』です。一冊を出たり入ったりする読書です。禅の本質はひとえに『言葉に出て、言葉を出よ』ということですが、そういう意味では、良寛はまさしく塵たちとともに読書で禅をしていたのです」。

論者によって、それぞれ異なる良寛が現れてくるのは、良寛という人物の奥行きの深さ故でしょう。