榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

利休が茶席の花入に花を生けず、水だけを入れておいたのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(144)】

【amazon 『利休の茶会』 カスタマーレビュー 2015年8月16日】 情熱的読書人間のないしょ話(144)

ゴーヤーの緑のカーテンが強烈な夏の日差しを遮っています。風情がありますね。

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閑話休題、『利休の茶会』(筒井紘一著、角川選書)を読んでみました。同時代の茶人たちが残した茶会の記録を丹念に読み込むことによって、千利休の茶がいかなるものであったかを浮かび上がらせようという、玄人好みの趣向が凝らされています。

茶道の専門家向けの本ではありますが、私のような門外漢にも興味深い挿話が紹介されていて、愉しめます。

「利休のライバルである(今井)宗久も(津田)宗及も父祖伝来の茶道具を駆使しながら、茶会を催すことができたことになる。その一方、利休にはそうした道具は存在しない。では、利休の茶のレーゾンデートルはどこにあったかといえば、趣向にあった。そこに活路を見出した利休は、次々にそれを行なっていく。利休が、いかなる茶人にもまして現在に至るまで『茶聖』として輝き続けている原点は、茶会の趣向にこそあったといっても過言ではない」。

「古き習いを充分に吟味したうえで、新しい作意を取り込むことが大切であるという。利休の茶の真骨頂は、この作意にこそあった」。

「利休は、一つ一つを自分の中に蓄積していき、道具茶ではない『作意』の茶で宗久や宗及を追い落としていく茶人に成長していった。利休茶会の究極は『亭主の顔がみえる茶会』であったということができるだろう。茶道をはじめとする伝統文化のすべては、一定のルールを基本にしており、茶道は点前(てまえ)がもとになって成り立っているのは、今更言を俟たぬところである。しかし、それだけにとどまっていては進歩はない。物を見る目と自分なりの作意をもつことは、道を究めようとするものの当然の心構えであるからだ。残された利休の茶会記が、それを証明している」。

「三人の客は席に向かう。ところが、席に入った三人は、アッと言って驚きの声を発したに違いない。床には『鶴ノハシ(鶴ノ一声)』の花入が置いてある。花入がある限り花を入れるのは常識だ。ところが利休はその常識を破って、花入に花を生けていない。三人が近づいてみると、口のところまで水が入れてある。挨拶に出た利休は、三人の不思議そうな顔を見ると笑いながら、『花入の口まで水を入れておきましたので、これを御覧になりながら皆様の頭の中に花を入れて、私の点てる茶を飲んでいただきたい』と言ったはずである。三人は利休の鮮やかな作意に、ため息をついたのではなかろうか」。花を入れずに水だけを入れるというのは、利休だからこそ成し得た、茶席の花の究極のあり方と言えるでしょう。

「茶人としての利休の生涯は、(村田)珠光の茶を再現する事に費やされたのではなかったかと私は考えている。とは言え、人格も時代も違うわけだから、行なわれる茶の湯が異なるのは当然のことである。利休が目指した珠光の世界とは、美意識と創造性ではなかったろうか」。

「天正10(1582)年6月2日早朝、天下統一を目前にして本能寺で憤死した(織田)信長のあとを襲った(羽柴)秀吉の茶の湯好きは、信長以上のものがあった。しかしながら秀吉の茶は、信長とは大きく違っていった。その違いが点前である。信長がハレの茶会で点前を披露することはほとんどなかった。勿論零ではないが、限りなく零に近かったと言えよう。それに対して秀吉は、自身で点前を披露することに興味を覚えてしまった、その典型が天正13(1585)年の禁中茶会である」。

「濃茶の各服点と飲み回し(吸茶<すいちゃ>)の問題に触れておこう。私は、濃茶を各服点から吸茶にしたのは利休の作意であり、その年は天正14(1586)年だったと考えている。利休は武将ばかりを招いたある茶会で、各服に点てて出していると時間がかかりすぎ、危急存亡に備えなければならない武士に、間延びを感じさせるからといって、飲み回しにする吸茶を始めたという」。

「言うまでもなく、珠光による草庵茶の成立は、それまでの茶の湯に質的変化をもたらす大きな要因となった。すなわち、それまでの(足利)将軍周辺の一部の専用物であった唐物道具への志向が改められ、和物との共存が図られるようになり、さらに禅宗寺院の精進料理とも結びついて、人々の関心を茶そのものへと向けたからである。さらに武野紹鷗から利休にかけて禅との結びつきが強化され、精神性を重視する茶の湯が成立していった」のです。