明治、大正時代の東京の中心部の地形を立体的に表現した地図帳・・・【情熱的読書人間のないしょ話(286)】
東京・上野の東京国立博物館で開催中の特別展「始皇帝と大兵馬俑」を見てきました。死後の始皇帝を守ることを託された8000体の兵士や馬の像が発掘された壮大な兵馬俑を鮮明にイメージすることができました。一人ひとり風貌が異なる実物大の兵士たちは、写実的に作られています。因みに、本日の歩数は15,204でした。
閑話休題、『明治 大正 凹凸地図 東京散歩』(内田宗治著、実業之日本社)は、東京の中心部の明治16年、17年、大正5年の地図を加工して地形の凹凸を立体的に表現した風変わりな地図帳です。
「東京の中心部、山手線の内側からその西にかけて、標高こそ十数メートルといったレベルだが、凹凸地形が複雑に展開している。江戸時代でも近年でも、丘の上には大きな屋敷が緑に囲まれて門を構え、谷底には庶民が身を寄せ合うようにして暮らしていた。・・・渋谷や池袋周辺などは当時の郊外で、田んぼや畑も広がっていた」。
新宿の「池を埋めて女学校を建てた歌舞伎町」は、このように説明されています。「明治30年代前半、尾張屋銀行頭取の峯島喜代が大村伯爵の土地を購入し、木々を伐採し土で池を埋めた。ここは尾張屋の原と呼ばれるようになった。峯島喜代は女性の社会進出を促す教育のためにと尾張屋の原を提供して、大正9年、同地に府立第五高等女学校が開校する。同校は太平洋戦争の戦災を受け、中野区富士見町(現弥生町5丁目)に移り、現在の都立富士高校となった。戦後この土地は、地元町会と都が主導して区画整理を行い、庶民的な娯楽センターを目指す。歌舞伎劇場の誘致も計画にあり歌舞伎町と命名された。歌舞伎劇場誘致はままならなかったものの、昭和30年代頃から急速に発展を遂げ一大歓楽街となった。歌舞伎町のように、これだけ利用のされかたが有為転変した地も珍しい」。何と、我が母校・都立富士高の歴史が語られているではありませんか。
「広大な焼け野原となった上野の森と本郷 寺院跡と邸宅に作られた文化・教育施設」は、こんなふうです。「公園となった旧寛永寺は、(戊辰戦争による)焼け跡でサラ地のようなものである。資金さえあればの話だが、好きなように施設を作っていける。都市計画において、これだけ広い土地で、しかも台地(山)としてまとまりのある地域が、複雑な土地権利関係もなくサラ地として存在した場所は、それ以後も含めて都心に例はないだろう。上野公園内には、明治15年に帝室博物館(現東京国立博物館)、動物園(現上野動物園)、明治20年に東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)、明治22年東京美術学校(現東京芸大美術学部)、明治39年に帝国図書館(現国会図書館国際子ども図書館)などができていく。大正5年の地図では、これらが園内にバランスよく配置されているのが分かる。その後大正15年東京府美術館(現東京都美術館)、昭和6年東京科学博物館(現国立科学博物館)、昭和34年国立西洋美術館と、空いている場所を埋めるようにして建てられていった」。これで、世界を見回しても他に例がないほど、上野に博物館や美術館が集中している理由が分かりました。
この他にも、「水路が張り巡らされ、水の都だった銀座界隈 築地の海軍施設は、関東大震災後に魚市場となる」など興味深い記述が満載です。
そして、私が驚いたのは、明治22年~昭和7年当時の、現在の東京23区に当たる地域は、東京市15区と近隣5郡から成っていたことです。都心を取り囲む恰好で南から時計回りに、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡と記されています。私が育った杉並区は豊多摩郡だったというのです。