榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

古代の日本は古代の朝鮮と密接な関係にあった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(221)】

【amazon 『日本古代史と朝鮮』 カスタマーレビュー 2015年11月10日】 情熱的読書人間のないしょ話(221)

散策中、川辺の光景に目を瞠ってしまいました。アオサギ、ダイサギ、コサギが勢揃いしていたからです。アオサギとダイサギが長い首を伸ばした写真も撮ることができました。ダイサギとコサギが餌の魚を捕らえようとする瞬間もカメラに収めることができました。因みに、本日の歩数は10,755でした。

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閑話休題、ふと書斎の書棚から取り出した『日本古代史と朝鮮』(金達寿著、講談社学術文庫)を読み返したら、初めて手にした30年前の衝撃が生々しく甦ってきました。

著者は、長年の研究を経て、「日本古代史は、朝鮮との関係史である」という結論に達します。

大化3(647)年に新羅の王族の金春秋が人質として日本に送られてきたことが『日本書紀』に記されているのですが、春秋は容姿が美しく、誇らしく話すと描写され、その後暫くして日本を去ったと書かれています。この春秋は後に朝鮮統一を進めた武烈王です。当時、ほとんど全ての文明・文化を先進国の朝鮮から学んでいた日本に、なぜ朝鮮の実力者が人質としてやってきたのか、かねがね不思議に思っていたのですが、著者がこの疑問に答えてくれました。「『大化の改新』というクーデターは、日本に渡来して土着していた新羅系氏族が中心となったものであり、それを『母国』の新羅がバックアップしたものであったということは、確かなことではなかったかと私も思っています。その行動的なところからみて、金春秋がやってきたということも、おそらく事実だったにちがいない。けれども、だから、それはもちろん『人質』などといったものとしてではない。なぜなら、そのことは、ほかならぬ『日本書紀』をみても、かなりはっきり読みとれるからです。『日本書記』によると金春秋が来たのは大化3年、すなわち647年となっているが、金春秋はこの翌年の648年には中国の唐へ行っている」。

「古代日本国家確立のための大きなドラマであったその『政変』(大化の改新)は、朝鮮においては百済がほろび、高句麗がほろびて統一新羅になるということと深く連動したものであった。簡単にいうと、『大化の改新』による孝徳朝は日本に土着していた新羅系渡来氏族と新羅、その後の斉明・天智朝は百済系渡来氏族と百済、そして『壬申の乱』を起こして成った天武朝はさらにまた新羅系渡来氏族と新羅、といった具合に、そのそれぞれが『母国と結んだ』ものにほかならなかったのです。そのことは『日本書記』などによってもうかがい知ることができます」。「686年、天武帝が亡くなると、日本ではまた一つの『政変』が起こった。そして、大津皇子とともにその師であった新羅僧の行心が処刑され、処罰される事件を契機として、つぎの持統朝からはまた百済系氏族が台頭しはじめた。そうして8世紀に入ると、古代日本国家がはっきりと統一的に自立するための自己絶対化がおこなわれ、そのための『古事記』『日本書記』などが編纂されるようになると、朝鮮ではすでにほろびてなくなってしまった高句麗や百済を属国視し、新羅に対してはこれを敵視し、蛮国視するにいたるのです」。

「大和朝廷の天皇家の祖先たちは、海を渡って南朝鮮から北九州へ渡来し、そこを日本における最初の拠点としたのであろう。南朝鮮から北九州に渡った外来民族は、何代かのちに畿内に進出した。これが神武東征伝説に反映していることはいうまでもない」。「これは、ひと口にいってしまうと、『魏志』倭人伝にいう伊都国で、いまは福岡県糸島郡前原町となっている北九州のそこは、海をへだてて向き合っている加耶諸国のいくつかが、そっくりそのまま引き移ってきたようなところです。加耶が最終的にほろびたのは562年ですが、それ以前から西どなりの百済、東どなりの新羅に侵出・吸収される過程でそうなったのにちがいないと思います。その彼らにとって、北九州のそこはまさに、『此の地は韓国(からくに)に向ひ、・・・朝日の直刺(たださ)す国、・・・甚吉(いとよ)き地』であったにちがいない」。「高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たちであったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、それらに横のツナガリがあったであろう。そしてコマ(高麗=高句麗、金)系、クダラ(百済)系、シラギ(新羅)系、その他何系というように、日本に於ても政争があってフシギではない。むしろ長らくかかる政争があって、やがて次第に統一的な中央政権の確立を見たものと思われる」。

古代の日本は古代の朝鮮との関係の中で考えなければならないということを、再認識した次第です。