榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ゲーテから現代の私たちが学べるものは何か・・・【情熱的読書人間のないしょ話(716)】

【amazon 『教養としてのゲーテ入門』 カスタマーレビュー 2017年4月4日】 情熱的読書人間のないしょ話(716)

隅田川のソメイヨシノは3分咲きですが、スカイツリーが隣のビルの壁面に影を映しています。一方、上野公園のソメイヨシノは7分咲きです。日比谷公園のソメイヨシノも7分咲きで、ムスカリの青、チューリップの赤、ソメイヨシノの薄桃色のコントラストが鮮やかです。因みに、本日の歩数は15,706でした。

閑話休題、『教養としてのゲーテ入門――「ウェルテルの悩み」から「ファウスト」まで』(仲正昌樹著、新潮選書)の著者が、一筋縄では行かない人物だということは、こういう言い回しからも窺われるでしょう。「ウェルテルは市民社会の中で早く大人になろうとしてあがく思い込みの強い若者、修業時代のヴィルヘルムは経済的現実に抵抗しようとする演劇青年、遍歴時代のヴィルヘルムは自分の限界と役割を悟った中年男性、ファウストは自分の人生の終わりが近いと感じて悪あがきする内に幻想に囚われていく老人・・・というように、キャラクターを規定することは一応可能である。そういう風に設定すると、現代の日本人にも『身近』に感じられるかもしれない。しかし、彼らをそういう分かりやすいキャラクターにして、ゲーテを理解したつもりになるのは、文学に興味を持ち始めたばかりの中高生ならいいかも知れないが、大人の読み方ではないだろう」。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの主要作品である『若きウェルテルの悩み』『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『ファウスト』などを解説しながら、ゲーテから現代の私たちが学べるものは何かを考えていこうというのが本書です。

私は、ゲーテの作品は、『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』と自伝的著作『詩と真実』しか読んでいませんが、本書によってゲーテとその作品の全体像を俯瞰することができました。

「『ウェルテル』は、大人になり切れない若者、特に市民社会の一員にならねばならない若者が、社会との軋轢の中で抱く妄想と、それに対して文学が与え得るプラス・マイナスの影響を総合的にテーマ化した作品だと言える。文学は妄想を通過するための助けになるかもしれないが、逆に引き返しようがない深みにまで連れていくかもしれない。現代の若者たちは、活字の書物の形を取る『文学』との関わりは少なくなっているかもしれないが、漫画・アニメやネット上の二次創作など、広い意味での『文学』によって翻弄される可能性はかえって広がっているようにも思われる」。

『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』は「一般に『教養小説Bildungsroman』と呼ばれるジャンルの模範と見なされている。『Bildung』というドイツ語の原義は『形成』であり、この場合は、人格の『形成』という意味である。従って、学問的な基礎知識という意味での『教養』とはあまり関係ない」。「この作品の主人公ヴィルヘルムは、演劇人として職人的な『修業』をしたというより、市民社会と多面的に関わっている『演劇』という媒体を介して、(様々なタイプの人間が地縁・血縁を超えて関わり合う)近代社会で生きることについて『修業』したと見ることができる。『マイスター』は、市民社会の複雑な現実と、それを映し出しながら、市民たちの生き方に影響を与える文学や芸術との緊張関係を描いた作品である」。「『マイスター』はその複雑な構成によって、(共同体の絆が緩んで、自己形成のモデルが見出しにくくなった)近代市民社会における個人の自己形成に、芸術がどう関われるかという問題を提起する作品である」。

『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』が「ある程度年齢を重ねた主人公の眼を通して、人生の限界を知り、『諦念』することについて多角的に考える小説だとすれば、かつては英雄的な生き方に憧れ、冒険をした主人公自身が、社会の大きな変動から外れて、自分に与えられた場に留まる、というのも十分にあり得ることだと思える。人生では、世の中の大きな動きとあまり関係なく、地味な役割を演じなければならないことの方が多い。歴史的大事件の中で主役級の目立った役を演じられる人間などごく少数である。一度そういう役を演じたとしても、ずっと目立ち続けられるわけではない。年を取れば次第に脇役になっていく、また、一緒に活動をしていた仲間と別れて、一人でやり直さないといけないこともあるかもしれない。大人になったヴィルヘルムの一見さえない、傍観者的な歩みは、つまらなくなっていく人生、社会学者宮台真司の言葉を借りれば、終わりなき日常を耐えることの必要性を暗示しているように読める」。私が、今、読まねばならないのは、『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』のようです。

「西欧的な意味で『主体』になるには、母胎=自然に回帰しようとする根源的な欲望や、慣れ親しんだ共同体への郷愁を捨てて、自らの生きる『目的』を自ら定め、その実現に邁進できる決断力を身に付けないといけない。しかし、『主体』としての私たちは、最終的には何を『目的』にしたらいいのか? 富、地位、名誉、知識、物質的快楽といったものが当面の目的にはなるが、それらを一定量獲得できれば、人生の目的を達成して満足できるのか? 獲得した富や知識を利用して、もっと何か別の究極の目的を目指すべきではないのか? 『ファウスト』の主人公である老学者ファウストは、人生の最期近くになって、そうした疑問を抱いてしまう近代人の典型である」。ファウストは「自然に近い慎ましい生き方をしている善良な人たちを傷つけてしまい、自分の内なる野蛮さを痛感させられ、終末の『憂い』に取り憑かれたまま、最期を迎える。もはや、あらゆる罪人を迎えいれてくれそうな、『永遠にして女性的なるもの』――『ファウスト』第2部の最後から2行目に出てくる有名な表現――による救いにかけるしかない。ファウストは、そういう近代人の最期の悪あがきと袋小路を描き出した作品と言える」。

著者は、ゲーテをどう捉えているのでしょうか。「ゲーテは、ヨーロッパの世界観・価値観も大変動の中で、それまで人びとの無意識に潜んでいた欲望がパンドラの箱から解き放たれ、様々なタイプの人間、人間関係が入れ代わり立ち代わり現われてくる過程を、出来合いの物の見方に固執することなく、自らの眼に映るままに素朴に描き続けた作家であると言える」。

本書は、ゲーテの入門書というよりも中級篇あるいは上級篇と位置づけるべきというのが、私の率直な読後感です。