榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

石原莞爾、南京事件、慰安婦問題、陰謀史観の真実が見えてくる一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1296)】

【amazon 『実証史学への道』 カスタマーレビュー 2018年11月8日】 情熱的読書人間のないしょ話(1296)

ヒドリガモの雄、ヒドリガモの雌を見つけました。クロオオアリがガの死骸を巣へ運ぼうとしているところに、もう1匹が手伝いにきました。クサギカメムシ、モンシロチョウ、コイ、ヒメダカをカメラに収めました。因みに、本日の歩数は10,592でした。

閑話休題、『実証史学への道――一歴史家の回想』(秦郁彦著、中央公論新社)には、歴史好きにとって見逃すことのできない内容が鏤められています。

「東大に入って、まず影響を受けたのが丸山眞男先生です。・・・私が丸山さんを多とするのは、18歳の少年に対し、対等に相手をしてくれたことです。私が臆面もなくつっかかると、丸山さんも正面から反論するんですよね。そういう先生というのは、他に会ったことがない。学生と張り合っても仕方がないと、適当にいなして終わるのが普通でしょう」。

丸山ゼミナールに入る約束になっていたが、丸山の肺結核が再発して2年間休職したため入れず、「その代わりに入ったのが、日本政治外交史の岡義武ゼミです」。「(丸山の指導教官であった)岡先生はゼミ生の報告に対するコメントが実に的確で、無駄なことは言わない。怖い存在で、皆、ぴりぴりしていました。・・・私はのちになるほど、岡さんを偉い先生と思うようになりました」。中大法学部時代に1年間、岡の講義を受けたことを懐かしく思い出します。

石原莞爾について。「謀略というと、いかがわしい感じがつきまといます。ところが石原は、一中佐にすぎないのに、まるで自らが参謀総長になって天皇の統帥権を代行するような感覚なんですね。・・・天才的な軍事思想家ではありましたが、日本を破滅の道へ追いやった責任者と(私は)総括しています」。

南京事件について。「日本では、十数万人以上の虐殺があったとする『大虐殺派』、虐殺はなかったと主張する『まぼろし派』、そして中間派に分かれ、今も論争が続いています。私は中間派で、犠牲者(不法殺害)は最大4万人と見ています。算定の根拠は、日本軍の戦闘詳報。これは功績判定の基準にもなる公式文書です」。「私が発掘した『抗敵報』という中国共産軍の機関紙が、1938年4月に4万2千人という数字を報じています。南京事件の直後です」。

慰安婦問題について。1992年1月11日の朝日新聞の慰安婦問題を報じる記事について、「これほどまちがいだらけの記事は稀でしょう。私の推計だと慰安婦の総数は2万人前後、最多は日本人で、朝鮮人女性は全体の約2割にすぎません。大多数は親の身売りによるものです。挺身隊は工場に動員された女性たちで、慰安婦とは無関係でした。・・・強制連行説の根拠になったのが、吉田清治著『私の戦争犯罪』(1983年)です。戦時中、労務報国会下関支部の動員部長だったと称する吉田氏は、(韓国の)済州島で慰安婦を調達せよとの西部軍命令を受け、女性を狩り出したと書いています。・・・(吉田に対する電話取材で)私は彼を典型的な詐話師だと直感し、92年3月、証拠を見つけるため済州島を訪れました」。吉田が書いていることはデタラメだと、島民が否定しているのです。

陰謀史観について。「各種の『陰謀史観』に染まりやすいのもアマ歴史家の特徴です。不思議なことに、陰謀の仕掛け人はコミンテルン、ユダヤ、フリーメイソン、CIA、客家(ハッカ)、ルーズベルトと多彩なのに、主役の座をめぐる争いは起きず仲よく共存しているのです」。これは痛烈な皮肉ですね。

本書には、著者がインタヴューした旧陸海軍指導者たち34名の証言も収録されているが、この中にも興味深いことが記されています。

神田正種・元陸軍中将の証言。「石原莞爾は俊傑であったが、余計なところに敵を作ってしまった。純真な良い人だったが、しぶとくはない。粘りに欠けた。何かあるとやめるくせあり」。

稲田正純・元陸軍中将の証言への著者の追記。「私が会った将軍たちのなかではもっとも頭が切れ、知略縦横の感があった。司馬遼太郎は稲田と会って不信感を持ったらしい。それが『ノモンハン』執筆を断念した理由のひとつになったようだ」。

瀬島龍三・元陸軍中佐の証言。シベリア抑留を巡る瀬島スパイ説と、日本側から「関東軍将兵を労働力として提供したい」と申し出たとする密約説が流布された件について、瀬島は当然否定しています。著者の見解は、こういうものです。「おそらく最初に(スパイ説を)持ち出したのは松本清張で、モスクワ近くの特別収容所に連れて行かれ、スパイになれと強要されたという記述だった、私はこの説は成り立たぬと思う。スパイに仕立てたいのなら、早めに帰国させるべきで、大多数が帰国したあとの1949年7月に、ソ連刑法の58条4項の『資本主義幇助罪』という奇妙な罪名で軍事法廷で重労働25年を科し、1956年8月、最後に近い船便で帰している。故国から10年以上離れた人をスパイにとは、考えられない」。そして、追記に、こうあります。「収容所時代の年譜を著書『幾山河』に収録したことで、(アリバイが成立し)スパイ説は立ち消えた」。これまで瀬島スパイ説を信じてきたが、本書によって、濡れ衣であったことを確信しました。

秦郁彦は、得難い、実証的な歴史家だということを再認識しました。