榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

石原莞爾、辻政信、瀬島龍三を通じて、昭和の参謀を考える・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2698)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年9月5日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2698)

キバナコスモス(写真1)、ヤマハギ(写真2、3)、ワルナスビ(写真4)が咲いています。殻径が40mmを超えるミスジマイマイ(写真5、6)を2匹見つけました。

閑話休題、『昭和の参謀』(前田啓介著、講談社現代新書)で、とりわけ興味深いのは、「石原莞爾――満洲事変という『下克上』」、「辻政信――幕僚統帥の孤高と孤独」、「瀬島龍三――シベリア抑留、そして商社へ」の3つの章です。

●石原莞爾
「『犬猿の仲』であった東条英機元首相についても、『東条には思想も意見もない。私は若干の意見をもっている。意見のないものと、意見の対立はない』と言い切ったことも石原伝説の一つとして知られる」。

「(石原らが引き起こした)満洲事変が陸軍の幕僚たちにもたらしたものは、規律や命令系統を無視しても結果さえよければ良いという風潮だった」。

「1937(昭和12)年7月7日、後に日中戦争へとつながる盧溝橋事件が起こる。石原は事件の拡大に反対したが、石原の置かれた立場は厳しかった。・・・石原は省部の間を奔走し、『今日の支那は昔の支那ではない。今や支那は統一せられて、挙国一致の強い力を発揮することができる。この支那と戦端を開くときは長期持久に陥り、日本は泥沼に足を突っこんだ如く身動きができなくなる。戦争は避けねばならぬ』と説得して回った。石原の念頭には、今は対ソのため国力、軍事力を拡充しなければならない時期であるとの考えがあった」。

「石原が先を見通す能力を持ち合わせていたことは間違いない。1937年秋、支那事変の不拡大の主張が敗れ去ると、早くも日本の滅亡について言及している。<日本はこれから大変なことになります。まるで糸の切れた風船玉のように、風の吹くままにフワリフワリ動いて居ります。国に確(しっか)りした方針というものがありません。今に大きな失敗を仕出かして中国から、台湾から、朝鮮から、世界中から日本人が此の狭い本土に引揚げなければならないような運命になります>」。

さらに、戦後の1946(昭和21)年6月頃、病床の石原を見舞った服部卓四郎に、石原は「日本は再軍備をしないが宜しい」と語ったと記されています。

本書によって、石原が日中戦争に反対であったこと、日本の敗戦を見通していたこと、日本の再軍備に反対であったことを、初めて知りました。

●辻政信
「辻は頭脳明晰、時に独断専行と言われようと己の信念に従い、行動する人であったが、老練とはほど遠かった。辻がいくら強く訴えても、岸(信介)のような人物を押しきることはできなかった。辻の清廉潔白や有言実行は、同じ環境、同じ価値観を持った軍隊の中で最も効果的だった。まして辻はその軍という組織においてさえ、個人としては孤立しがちで、仲間作りや組織内での世渡りは苦手だった。そんな辻が、(戦後の)政治の世界でそれを覆せるはずもなかった」。

「もはや日本社会は、辻を求めていなかったのかもしれない。1961(昭和36)年4月、東南アジアに視察に出かけた辻は、そこで消息を断ち、二度と日本の土を踏むことはなかった。いまだに解決し得ないいくつかの謎を残しつつ、辻に、法的に死亡宣告が出されたのは1969(昭和44)年夏のことだった」。

辻のせいで、多くの将兵の命が失われたことを忘れることはできません。

●瀬島龍三
「幼年学校から陸大まで同期生だった久保田茂によれば、陸大時代、課題が出ると、久保田を含め他の学生たちは家に帰ってから問題に取りかかるが、瀬島はまず図書館に行き、いろんな資料を集めていたという。久保田は『一つの問題に対して、諸外国の論文から昔の戦史まで、見られるだけ見る、見たうえで家に帰って作業する。私どもは、自分の持っている資料の範囲ということになりますよ。だから、彼の答案は図抜けていた。(略)さすがだと思いましたね。努力家だった』と感心する」。

「選局がますます逼迫した1945年4月半ばには、迫水(久常)からの連絡を受け、瀬島は書記官官舎を訪ねた。そこで迫水は鈴木貫太郎首相の真意が、できるだけ早く戦争を終結に導くことにあると打ち明けた。これに対し、瀬島は『私が参謀本部において、いろいろ計算して見ましたが、どう計算しても今後の戦局を好転せしめ得る見込みは残念ながらありません。内閣の方針は極めて妥当であると思います』と答えた」。

「(1995年)当時、瀬島にはシベリア抑留時にソ連のスパイになったのではないかという噂があったが、秦(郁彦)は『私は、スパイ説は成り立たないと思っていた。というのは、もしスパイならば、スパイ養成の教育を施し、早期に帰国させるはずだが、11年も抑留された。いつどこの収容所にいたか、そのとき、誰と一緒だったかを表にした『抑留11年の年譜』を作るよう勧めた。同署の刊行以後、スパイ説はぴたっとやんだ』と語る」。

「瀬島は抑留中、(ソ連による)民主運動に苦しめられた経験を顧みて、『人間とは何ぞや、人間の本質は何か、人間にとって最もつらいことは何か、最も尊いことは何かなど考える機会になった』(瀬島著『幾山河』)と綴っている」。

長年に亘り、瀬島のソ連スパイ説が気になってきたが、本書のおかげで一応区切りをつけることができました。