榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ライバルたちの戦いが歴史を作ってきた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1505)】

【amazon 『世界史を作ったライバルたち』 カスタマーレビュー 2019年6月2日】 情熱的読書人間のないしょ話(1505)

昆虫観察会に参加しました。ウラギンシジミ、ルリシジミ、サトキマダラヒカゲ、クチバスズメ、マイマイガの幼虫、交尾中のハラビロヘリカメムシ、マルカメムシ、群棲するクリオオアブラムシ、ナナフシ(ナナフシモドキ)、キセルガイ、コガネグモ、アワフキムシの幼虫の巣(捕食者から身を守るため、幼虫が排泄物を泡立てたもの)をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は16,047でした。

閑話休題、『世界史を作ったライバルたち』(アレクシス・ブレゼ、ヴァンサン・トレモレ・ド・ヴィレール編、神田順子・村上尚子・田辺希久子・大久保美春・清水珠代訳、原書房、上・下)では、世界史に大きな影響を与えた20組のライバルが取り上げられています。「彼らの対立においては、一日で一人の人間の生涯が決まり、時として一人の人間の命運が何世紀もの歴史の流れを決めた」。「彼らの対決は、わたしたちの国境、宗教、伝統の趨勢を決めた。それは、征服のため、もしくは自衛のための戦いであった。彼らの多くは誇大妄想気味で、後世が自分をどのように評価するかをつねに気にかけていたが、国家、神、特別な土地、原理原則といった、自分たち個人を超越した価値のために闘うこともあった」。

とりわけ興味深いのは、「スキピオ対ハンニバル――カルタゴの1回目の死」、「ボードゥアン4世とサラディン――十字軍国家、エルサレム王国の終末」、「アレクサンドル1世とナポレオン――『政治的』死闘」の3つの物語です。

「時は、紀元前202年10月19日。ほんの数時間で、ローマの存在そのものをおびやかした17年にもおよぶ長い戦争に決着がつき、一つの文明が光から薄闇へと転落した。しかも、この劇には、ドラマティックな運命をたどる千両役者二人が登場する。2世紀の歴史家フロルスが『史上もっとも偉大な』と評価する二人の指揮官だ。一人目のプブリウス・コルネリウス・スキピオは(34歳の)若き軍人だ。このときの彼はまだ『アフリカヌス』という尊称をあたえられていないが、すでに、一度も敗北を喫したことがない名将との評判をとっていた。二人目のハンニバルは、経験豊かな軍人だ。このとき45歳だったハンニバルはアフリカの老ライオンであり、百戦錬磨のおそるべき指揮官としての名声はおとろえていなかった。彼のローマに対する戦いは17年にもおよび、その間にローマの軍団を約20も壊滅させ、ローマの存在そのものをゆるがした。そのハンニバルはついに、自分にみあった敵と対峙することになった。二人とも、これが容赦のない決闘となることを承知していた。勝利か、さもなくば死」。国のために絶大な貢献をしたのに、スキピオもハンニバルも不幸な晩年を送らざるを得なかったことを知り、複雑な気持ちになりました。

「1174年7月にアモリ1世が亡くなると、息子のボードゥアン4世が跡を継いでエルサレム国王となった。まだ13歳であったが、当時は不治の病であった癩(ハンセン病)に感染していることがすでにわかっていた。彼が治める小さな王国は、われわれが慣習的にサラディンとよんでいる勇猛な征服者、サラーフッディーンが支配する君主国や公国(エジプト、シリア)に囲まれていた。サラーフッディーンは、エルサレム王国を征服し、聖地であるその首都エルサレムを奪取する、という野心的な目標の実現に情熱を傾けていた。ボードゥアン4世が死去してからわずか2年後の1187年7月4日の運命の日、サラーフッディーンは、ハッティーンの戦いでフランク人(東ローマ帝国やイスラム諸国は西欧人全般をフランク人とよんでいた)をたたきつぶし、歴史が浅い十字軍国家群が存続する可能性を閉ざし、その後の何世紀にもわたって勝利を重ねるイスラムの象徴となる。力の差が大きすぎたこの戦いをふりかえるとき、寛容であるかと思えば無慈悲な征服者サラーフッディーン(45歳)と、悲劇的な運命に非凡な勇気で立ち向かったボードゥアン4世(22歳)のどちらをたたえるべきか迷わざるをえない」。十字軍の長い歴史の一端を知ることができました。

「『アレクサンドル皇帝(29歳)に会ったところだ。彼には非常に満足した。たいへんな美男子ですぐれた皇帝だ。一般に考えられているよりも才気がある』。1807年6月25日付けのジョゼフィーヌ宛のナポレオン(37歳)の手紙だ。同日の午後にフランスとロシアの皇帝二人は、ネマン川に係留された筏の上で親しげに抱擁し、イギリスに対する『憎しみ』で意気投合している。以上の知識だけでは、この二人が歴史に残るライバルのランキングで上位を占めている理由がわからずとまどうことだろう。読者はもうおわかりだろうが、二人が抱擁をかわした場所であるティルジット(東プロイセン)の外交芝居は、不可避であった二人の戦いの小休止にすぎなかった。当時、すなわち19世紀初頭において、フランスとロシアの利害は真っ向から対立していたので、筏の上の会見から2週間後に締結される和約が、地政学の深層をゆり動かす力に耐えるチャンスは一つもなかった」。その後、アレクサンドル1世がナポレオンとの戦いに勝利を収めたことで、さしものナポレオンも権力の座から転げ落ちたことは、周知のとおりです。