28歳の処女の、凄みのある想像力が生み出した『嵐が丘』・・・【山椒読書論(378)】
20歳で読んだ時、姉のシャ―ロット・ブロンテの『ジェイン・エア』には感動したが、妹のエミリ・ブロンテの『嵐が丘』は、「なぜ、これが世界的な名作とされているの?」という違和感、不審感が残った。このことが長く気にかかっていた。自分の人生経験の浅さ故の誤読だったのかもしれないと、今回、48年ぶりに読み直してみて、驚いた。
『嵐が丘』(エミリ・ブロンテ著、田中西二郎訳、新潮文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、息が止まるかと思うほど圧倒的な迫力に満ちた、素晴らしい作品であった。時は19世紀、イギリスの寒村の牧師館に住み、意志は強固だが、内気で社交性がなく、恋愛経験のなかった28歳の処女に、どうしてこのように強烈な恋愛の物語が描けたのだろうか。その凄みのある想像力には、本当に驚かされる。
イギリス・ヨークシャーの荒野(ムーア)の烈風に絶えず曝されているため「嵐が丘」と呼ばれるアーンショー家の屋敷の主人に拾われた孤児・ヒースクリフ。彼は、主人の娘・キャサリンへの激しい愛を胸に、主人の死後、若主人となったキャサリンの兄・ヒンドリーの虐待に耐えていたが、キャサリンが裕福なリントン家の息子・エドガーと結婚することを知り、絶望のあまり家出してしまう。
「あたし(キャサリン)は子どもだった。お父さまのおとむらいがすんだばかりで、あたしの不幸はヒンドリーがあたしとヒースクリフといっしょにさせなくなったときから始まったの。はじめてあたしはひとりぼっちになった」。
「どんなにあたし(キャサリン)があの子(ヒースクリフ)を愛していても、それをあの子に知らせてはならないの。ヒースクリフがきれいだからでなく、ヒースクリフこそは、ねえネリー(家政婦)、あたし以上にほんとうのあたしなのだから愛しているのだってこともね。魂ってものがなんでできてるものか知らないけど、あの子とあたしは同じ魂を持ってるんだわ。リントン(エドガー)の魂とは、月の光と雷光(いなずま)、霜と火ほど違ってるわ」。
「この世でのあたし(キャサリン)の大きな不幸は、みんなヒースクリフの不幸だったし、はじめからあたしはその両方を見て、感じてきた――生活の中であたしの養ってきた大きな思想が、ヒースクリフその人なのです。もしほかのすべてが滅びて、『彼』だけ残ったとすれば『あたし』もまだ存在しつづけることでしょう。そして他のものが皆残って彼だけがなくなったら、この宇宙は一個の大きな他国になって、自分がその一部だという気はしなくなるでしょう。リントン(エドガー)さんへのあたしの愛情は森の茂り葉みたいなもので、冬が来れば樹の姿が変るように、時がたてば変ることをあたしはちゃんと知っている。ヒースクリフへの愛は、地底の永遠の巌に似て、目に見えなくても、なくてはならぬ喜びの源なのです。ネリー(家政婦)や、あたしはヒースクリフです! あの子はいつも――あたしの心の中にいる。あたし自身があたしにとって必ずしもつねに喜びではないのと同じことで、あの子も喜びとしてでなく、あたし自身として、あたしの心に住んでいるのです。ですから、あたしたちが離れ離れになるなんてことは、もう二度と言わないでちょうだいね」。
「たといあの男(エドガー)があの貧弱な心と体の全力を尽くして、キャサリンを愛したところで、80年かかってやっとおれ(ヒースクリフ)の1日分しか愛せやしないよ。そしてキャサリンはおれと同じ深い心情を持つ女だ、あの女の愛情のすべてをエドガーのごときが独占できるものなら、大海の水もわけなく馬のかいば桶にはいってしまうだろう! チェッ! あんなやつはキャサリンにとっては飼い犬一匹、馬一頭と、どれほどの違いもありはせん。おれのようにあの女(ひと)から愛されるところが、エドガーにはないのだ。それがないのにキャサリンがどうしてあいつを愛せるのだ?」。
ヒースクリフとキャサリンは、世にも稀な激越な情熱を共有していたのである。ヒースクリフはキャサリンであり、キャサリンはヒースクリフであるだけでなく、ヒースクリフもキャサリンもエミリの分身であったのだ。
4年後、大きな財産を作って、「嵐が丘」に帰ってきたヒースクリフは、かつて自分を虐待したヒンドリーたちに冷酷で執拗な復讐を開始する。そして、悪辣な手段を講じて、遂にアーンショー家とリントン家の全ての土地・屋敷・金品を手中に収めた彼は、19歳で亡くなった恋人・キャサリンの幻を追い続けるが、やがて、食を絶ち、眠りを取らず、恍惚感に包まれながら死んでいく。キャサリンの死から18年後のことであった。
「あのひと(ヒースクリフ)は、この上もない意地の悪いひとでね、少しでも気を許せば、自分の憎いと思うひとたちを苦しめて、破滅させては喜んでいる人間だからなのだよ」。
「長の年月、胸の奥で恨みを返そうと思いをこらし、入念に、また一片の良心の呵責もなくそのたくらみを実行するというような、そんな(ヒースクリフの)精神の陰険さ、凶悪さに、驚きあきれてしまいました」。
「おれ(ヒースクリフ)は寺男に金を握らせて、おれが死んだらエドガーの棺を横へずらして、おれをあそこへ寝かせてくれるように頼んだ。おれの棺の縁もキャサリンのと同じに、片側をはずしておくように頼んだ。おれの棺はそういうふうに作らせるつもりなのだ。だからエドガーの棺が朽ちて、おれたちのそばへあいつがくるころには、おれとキャシー(キャサリン)の区別がつかんようになっているだろうよ!」。
「キャシー(キャサリン)こそつい昨夜(ゆうべ)まで夜も昼も、18年のあいだ――絶え間なく――慈悲も情けもなく――おれ(ヒースクリフ)の安静を乱しつづけたのだ。そして昨夜、やっとおれは心が安まったのだ。昨夜の夢で、おれはああして静かに眠っているキャシーのそばに、永遠の眠りを眠っていた、おれの心臓は鼓動を止め、おれの頬は彼女の頬にひたと凍りついていた――」。
なお、翻訳に関してだが、同じ新潮文庫の新訳よりも、この田中訳を薦めたい。