シェイクスピアの作品が、これほどエロティックだったとは・・・【情熱の本箱(20)】
これまでシェイクスピアの作品は結構読んだつもりになっていたが、私の読み方がいかに甘かったかを、『本当はエロいシェイクスピア』(小野俊太郎著、彩流社)に思い知らされた。
著者は、シェイクスピアの作品は、古典だけど問題児だという。「『人生の教科書』として楽しめることが、シェイクスピアを古典にしてきたのでしょう。ただし、長い間シェイクスピアのなかで醜悪な要素とみなされ、学者たちがあからさまな分析を避け、道徳家が目を光らせて削除してきた部分がありました。性的でエロティックな要素です」。
その一例として、『ロミオとジュリエット』の中の、ジュリエットの父と母の台詞が挙げられている。「徹夜だってへっちゃらだ、と考える夫が『おれも昔はもっとつまらぬ理由で一晩寝ないでいたが、ぴんぴんしていたぞ』と断言すると、すかさず妻が『ええ、お盛んなころは、小ネズミちゃんを狩ってましたものね。あなたが寝ないでいるなら、私も寝ずに見張ります』と言い返します。小ネズミに『かわいい娘』とか『娼婦』という意味があるので、狩りの内容は理解できるでしょう。しかも『お盛んなころ』という言い方に『昔ほど勢いがなくなった』という鋭いトゲが隠れているのです。何の勢いなのかは言うのも野暮です」。
「大人になっても、シェイクスピアの作品にある人間の下半身をめぐる要素を排除しながら読むのはもったいないだけでなく、作品理解としても不十分でしょう」と、著者は読者の痛い所を衝いてくる。
「男たちの妄想領域」「女たちの色仕掛け」「ディープな世界へようこそ」と名づけられた各章で、シェイクスピア作品のエロティックな部分が次から次へと示されていく。著者の説得力は相当なものだが、正直に白状すると、これらのうち、「男装」「レイプ」「ベッド・トリック」「近親姦」「同性愛」は私の好みに合わなかった。
「これ(『ロミオとジュリエット』)は世間で思われているような純愛だけの劇ではありません。自分の体を傷つけるような暴力や性愛を求める気持ちがたっぷりと描かれています。じつは、長年人気を保っている秘密はそこにあるのです。肉体を重視する悲劇だからこそ、歌や踊りと同時に非行グループの暴力にあふれたミュージカルの『ウエスト・サイド・ストーリー』のような翻案を生みだせたのです」。そうだったのか。
「ほかの鳥の巣に托卵をするカッコウから、英語の『寝取られ亭主(cuckold)』という言葉が生まれました。自分の妻に『間男』ができて、最悪の場合にはわが子と思っていたら他人の種だった、という衝撃的な事実が明らかになるのです。中世においてカッコウは不倫をしめす言葉となりました。フランス語だと『カッコウ』は『コキュ』となり、フローベールの『ボヴァリー夫人』やスタンダールの『赤と黒』といった姦通小説でおなじみです」。そういう由来だったのか。
エロティックな事項でなくとも、知らなかったことがいろいろ記されている。「シェイクスピアも元ネタなしには作品を書けない人なのです。ライバルの劇団が上演したネタをもらって、もっと上手に書けるぞ、とばかりに書き直した作品も多いのです。『ハムレット』もそのひとつとされますし、『ロミオとジュリエット』だって流行していた物語詩のドラマ化でした。小説やマンガにストーリーをもとめ、他局の企画をパクる今のテレビとおなじなのです」。
「江戸で作られた歌舞伎が、江戸の地理感覚から離れられないように、シェイクスピアの芝居は、どこまでも大都会ロンドンを中心とした地理感覚や風俗から逃れられないのです」。
「戦後宝塚が『ヴェニスの商人』を演じたことがあり、そのときポーシャを演じた淡島千景の姿を観て、手塚治虫が『リボンの騎士』のサファイア王女を生み出したことは知られています。そして、この手塚作品がなければ池田理代子の『ベルサイユのばら』のオスカルはなかったわけです。もちろん、池田作品が宝塚歌劇団を代表する舞台となることもなかったでしょう」。知らなかったなあ。
「シェイクスピアの時代はあくまでもセリフ劇なので、男女の区別や年齢をしめすときには、声色やセリフ術で補っていました」。
「シェイクスピアは1616年に亡くなる数週間前に遺書を書きました。中身は娘や孫や友人に残す金品については細かく指示があるのですが、妻のアンには『二番目に良いベッドを付属品つきで残す』としか書かれていないので、いろいろな憶測がなされてきました。愛情がある遺産の残し方なのかといえばやはり首をひねってしまいます」。
この本にはいろいろと驚かされたが、一番意外だったのは、シェイクスピアがピアスをしていたことだ。「左耳に金のピアスを光らせたシェイクスピア。30代だが、まだまだ野心と欲望が渦巻いていた」というコメントを付して、ジョン・テイラーの1600年頃の画が紹介されている。