榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

「愚行」を巡るフローベール、ドストエフスキー、ニーチェの興味深い関係・・・【情熱の本箱(341)】

【ほんばこや 2020年10月10日号】 情熱の本箱(341)

愚行の賦』(四方田犬彦著、講談社)は、「愚行」を巡るエッセイ集だが、とりわけ興味深いのは、「ぼくはあの馬鹿女のことをみんな書いてやる フローベール」、「わたしは本当に白痴だったのです ドストエフスキー」、「わたしはなぜかくも聡明なのか ニーチェ」の3篇であり、また、この3者の関係性である。

「19世紀フランスのブルジョワ家庭に育った一人の少年が、あるとき世界が際限のない愚行の連続によって築き上げられていることに気付く。彼はそのすべてをサーカスの見世物のように傍観し、嘲笑的な眼差しを向けていようと決意する。他人の愚かさを逐一観察し、蒐集し、記録してやろうと、高邁な野心を抱く。だがやがて愚行は単なるエクリチュールの素材であることをやめ、少年が世界を認識するにあたっての原理的選択へと変化する。ギュスターヴ・フローベールと呼ばれるこの少年は、あまたの愚行に憤慨し、それを友に書き送るのだが、実はこっそりとではあるが、愚行に魅惑されてしまった存在でもある。やがて彼は、愚行こそが人間が永遠的なるものへ向かうさいの、本質的な位相ではないかと考えるにいたる」。

「愚行への戦いを決意したとき、彼はエクリチュールに身を委ねることを選択する。結果として、三つの、互いに異なった大きな企てがなされることになった。『ボヴァリー夫人』は愚行の類型学である。他人が書いた小説を過剰に読み過ぎて、愚行へと走ってしまう人妻。状況の把握ができず、妻の愚行にまったく無頓着なままの、愚鈍な夫。文明発展のイデオロギーを素朴に信じ、知識が人間を解放すると無邪気に信じる薬屋。人妻と夫は挫折し、薬屋は凡庸に成功する。作者はこの愚劣なる『田舎風俗』を、作者という外部の視座から操作的に描ききることにひとまず満足する」。

「フローベール、かく戦えり。わたしはそう書きつける。彼は愚かさを憎み、愚かさについて書き続けた。エクリチュールは愚かさに対する最大の武器ではあったが、書くことは同時に愚かさの発現でもあった。フローベールの孤軍奮闘は、同時代のヨーロッパにあって、言語と国境を異にする二人の文学者、哲学者と平行している。ドストエフスキーは『白痴』を執筆中、『ボヴァリー夫人』をつとに参照し、ニーチェは(フローベールをデカダンだと誹謗しながらも)『聖アントワーヌの誘惑』の結末部における生命の全面的肯定において、フローベールの血を分けた兄弟でありうるだろう。19世紀のヨーロッパにあって彼らは、愚行と差し向かうことによって、高貴にして危機的な三位一体を築き上げていた」。

「『白痴』はドストエフスキーの数ある長編のなかでも、愚かしさと聡明さ、凡庸と無垢、卑劣さと神聖さといった相反する主題をもっとも雄弁に物語っている作品である。恐ろしいまでの美しさと恐ろしいまでの愚かさが平然と同居し、互いに双方を照らしあっている。詐欺師、アルコール依存症患者、偏執狂、怨恨者、嫉妬者、性的変質者、妄想患者、犯罪者、乱暴者・・・ありとあらゆる愚者がここには登場している。だがその中心には、誰一人到達できない神聖な存在として、『白痴』と呼ばれるレフ・ムイシキン公爵が鎮座している。・・・絶対の愚を体現する公爵を中心に、大小さまざまな愚者がそれぞれに固有の場所をもち、グロテスクにして奇怪な星座布置を築き上げているのだ。人類は理性の光に導かれて幸福への道を歩むのだというイデオロギーが支配的なものとして機能していた19世紀ヨーロッパにおいて、ドストエフスキーがそれに対抗し、狂人と白痴が跳梁し、愚行という愚行がパノラマのように展示されている長編小説を執筆したことは記憶されるべきことである」。

「ドストエフスキーは『白痴』を執筆するにあたって、どうして同時代のフローベールを強く意識し、彼に共感を抱くにいたったのだろうか。この点についてはまず、彼らが共通の人物を師と見なしていたことを忘れてはならない。二人は偉大なる先達、つまり『ドン・キホーテ』を著したセルバンテスの、二世紀後の弟子なのだ」。

「この小説(『白痴』)が発表された1868年から21年後、一人のドストエフスキー愛好家のスイス人が、同じ愚行を引き起こそうとして大学病院精神科に収容される。その名はフリードリッヒ・ニーチェ」。

「ニーチェは哲学者としてはきわめて例外的なことであるが、愚かしさを見つめることを回避しなかった人物である。芸術神話の蔓延状況への批判においても、キリスト教道徳の批判においても、人間と運命の関係においても、彼はつねに愚かしさを分光器として論じるのがつねであった」。

「ニーチェはフローベールを蛇蝎のごとくに嫌っていた。・・・彼が『ボヴァリー夫人』の作者をデカダン、つまり生を萎縮させ、力=意志を衰退させる側に加担しているという認識を抱いていたことは事実である」。

「ではドストエフスキーはどうだったのだろうか。このロシアの作家はともに癲癇を患っていることもあって、フローベールに並々ならぬ共感を抱いていた。彼は『白痴』のヒロインを、『ボヴァリー夫人』の愛読者として設定し、凡庸な愚者を描くさいにこの小説から少なからぬ示唆を受けていた」。

「ニーチェはドストエフスキーに対し、最大限の賛辞を贈った。・・・ニーチェはニヒリズムの克服を考えるにあたって、とりわけドストエフスキーに示唆されるところが大きかった。『アンチクリスト』では『悪霊』と『白痴』を、『偶像の黄昏』では『死の家の記録』と『虐げられし人々』を分析し、肯定的な注釈を寄せている。・・・ドストエフスキーとニーチェは、つねに肉体の現前を視野に収めながら思考を構築するという点で深く共通している。・・・超人思想、同時代の科学信仰が創り出すユートピア像の偽善、制度的な道徳意識としての善悪の愚劣・・・フランス語での翻訳を通してニーチェはドストエフスキーの小説のなかに、自分の哲学とのさまざまな対応物を発見した」。

知的好奇心を掻き立てられる一冊である。