『日本書紀』は、勝者・天武天皇の自己正当化の産物・・・【山椒読書論(442)】
『天武天皇の企て――壬申の乱で解く日本書紀』(遠山美都男著、角川選書)は、日本の古代史に関心を持つ者の胸を妖しく騒がせる。著者の大胆な仮説に賛成か否かを問わず、見逃せない一冊である。
著者は、『日本書紀』の編纂を企図した人物にとって、一番重要な部分は壬申の乱を記述した「壬申紀」であったと主張する。「『日本書紀』はほかならぬ天武(天皇)自身の発案により編纂が始まり、その後継者となった天皇たち(持統→文武→元明→元正)の時代に編纂が続けられた。そのことからいっても、天武による皇位継承の正統性について、歴史叙述を通じて確定しようというねらいがあったことは当然と考えざるをえないであろう」。「天武10年3月に天武が国史編纂を開始したのは、彼が樹立しようとしている国家体制の来歴と正当性を語るためであったとみられるが、さしあたりの最大の関心事がなんであったかといえば、自身の天皇としての正当性に関わる壬申の乱をどのように描くかということであったにちがいない。壬申紀がのちに完成する『日本書紀』編纂の起点であったことは否定しがたいといえよう」。
この目的を果たすべく、『日本書紀』は、天武を古代中国の漢王朝の開祖・劉邦になぞらえることに奔走する。「天智(天皇)紀は中国の史書に倣って、天智王朝が天智自身のすぐれた帝徳にもかかわらず、その周囲にうごめく奸臣らのせいで終焉・滅亡の危機に瀕していたという明らかなフィクションを設定したわけである。古代中国の歴史をふまえた虚構こそが、壬申紀を読み解く上での大前提となる。換言すれば、『日本書紀』はこのようなフィクションなしには壬申の乱を描くことができなかったといえよう」。
天武が兄・天智没後の天皇位を狙おうとしたときの最大のライヴァルは、天智の息子・大友皇子であった。「天武が兄天智の正式な後継者である大友を自殺に追い込み、その地位と権力を強奪した事実が巧みに隠蔽・緩和され、さらにはその行為の正当化まで果たせることになる」。「壬申紀は、大友を(古代中国の)秦の(二世皇帝の)胡亥になぞらえようとしているが、胡亥は『史記』において秦王朝を短命で終わらせた稀代の暗君として描かれている」。「壬申紀において胡亥=大友とされているとすれば、(秦の)始皇帝=天智ということになる。したがって、壬申紀が劉邦=天武としているのは、あくまで始皇帝=天智との関係性において、劉邦と天武とのあいだに共通点・類似点があると認識されていたことになるであろう」。
「天武天皇は壬申の乱を描くにあたって、自身が天智の正式な後継者たる大友皇子を殺害し、その地位と権力を強奪したことを隠し、その行為を正当化するために、当時の倭国にはありえない中国的な天智王朝とその衰亡の危機というフィクションを『創作』した。これが『日本書紀』全体の構想の出発点となったのである。さらに天武は、このような王朝が実在したことを強調するために、天智の手で討たれた蘇我氏による王朝簒奪という物語を捏造し、この天智王朝なるものの起点としては、継体(天皇)が前王朝からの禅譲によって新王朝を開いた物語を創り出した。天武はこれに加えて、仁徳(天皇)を始祖とする系譜と物語を利用し、継体以前にも中国的な王朝の興亡・盛衰があったとする物語を配置したわけである」。
天武は、自分は天智王朝の簒奪者ではなく、天智王朝の衰亡を救うために、正当に引き継いだのだように見せかけたかったのだ。すなわち、『日本書紀』に描かれた歴史は、天武という勝者によって企画・構想された、まさに「勝者に都合のよい歴史」だったのである。