長宗我部元親は、武力一辺倒の武将ではなく、低姿勢外交の人でもあった・・・【山椒読書論(481)】
長宗我部元親は、私の好きな戦国武将だ。『長宗我部元親と四国』(津野倫明著、吉川弘文館)には、私の知らなかった元親の実像が示されていて、大変勉強になった。
「四国を制覇した戦国武将長宗我部元親。その強さの秘訣とは何だったのか。武力と調略を使い分けて、敵対勢力を巧みな外交で取り込んだ冷静なセンス」に、著者は着目したのである。
「天正10年、(織田)信長は三男信孝を指揮官とする長宗我部攻撃を計画していた。・・・長宗我部勢力はすでに先遣部隊により阿波で劣勢に追い込まれており、本隊渡海が実現すれば危機を迎えていたであろうが、渡海の直前に本能寺の変がおこったのである。変の一因は親長宗我部の立場をとっていた(明智)光秀が(信長の)四国政策の転換により窮地に立たされた点に求められるのであり、その意味で本能寺の変は決して偶然この時期におこったのではなかった。危機を脱した長宗我部勢力は優勢となり、9月には三好勢力を統率していた十河存保を阿波から讃岐に敗走させる」。本能寺の変の一因は、信長の命に従わなかった元親にありというのである。
光秀没後の、「(羽柴秀吉に対する)あっけないほどの降伏劇を選択した元親の判断は、物静かで慎重な元親の人物像に相応しいといえるのではないか。長宗我部氏を、そして家臣たちを、さらに同盟者たちを滅亡に導いてしまうような勇猛果敢さよりも、『物事をゆっくりときちんとする』慎重さが求められた局面であったといえよう」。
「元親は四国における覇業を遂行していたのであり、四国随一の戦国大名であったことはまちがいない事実である。戦国期の四国における長宗我部氏のプレゼンスは絶大なもので、元親は四国を制覇したと評してよいだろう。それを可能とした要件の一つが長宗我部氏の軍事力であったことはいうまでもない。・・・ただし、元親が四国を制覇できた重視すべき秘訣は彼の外交手腕であろう。元親は自身の兄弟や子など一族を国人家に入嗣するあの手段も用いながら、阿波・讃岐・伊予のいずれにおいても広範に同盟関係を構築していった。・・・(同盟者に対する)丁重な文言が示す、『慇懃の人』に相応しい低姿勢に元親外交のモットーを看取すべきであろう。こうした四国の諸氏との関係は従属関係というよりは、同盟関係であったとみなすべきであろう」。
「こうした律義さが同盟関係の構築と維持を支えていたのであり、元親の『強さ』の秘訣ひいては四国制覇の秘訣だったといえよう。元親は、一領具足を率いて武力一辺倒で四国統一を成し遂げた人物である、こうした虚像が払拭されたとすれば、そして元親は『慇懃の人』『律義第一の人』と評されるに相応しい外交姿勢をとり、『しとしと』と外交手腕を発揮して四国を制覇した人物であると納得いただけたならば」満足だと、著者が結論づけている。