吊り下げられた小さな檻に全裸で閉じ込められた、その女・アレックス・・・【続・独りよがりの読書論(25)】
独創的なミステリ
その男・マコトは、「途中で止められなくて、朝まで読んでしまった」と呟いた。その傍らには、付箋で針鼠のようになった『その女アレックス』(ピエール・ルメートル著、橘明美訳、文春文庫)が置かれている。
この男が、若い時はともかく、近年は徹夜で読書することは滅多にないので、その本の何がそんなに夢中にさせたのか問うたところ、「ネタをばらしたら、これほど独創的なミステリを提供してくれた著者、ピエール・ルメートルに申し訳ない」との答えが返ってきた。
そこで、少しでもいいから、ヒントが欲しいと頼んでみた。そこまで言うならと、付箋が付いたページを繰りながら、声を出して読み始めた。
誘拐された女
「なんの助けも得られない以上、自分で死ぬしかないからだ。とはいえ衰弱し、麻痺した体は言うことを聞かず、思うようにならない。今や排泄物は完全に垂れ流しで、痙攣が止まらず、全身がこわばっている。アレックスは絶望し、最後の手段だと木枠の角に足をこすりつけはじめた。焼けるような痛みを感じたが、それでもやめなかった。苦しみをもたらす肉体を憎み、肉体を殺したかった。だから力を振り絞って足を動かし、荒削りの木の尖ったところにこすりつける。痛いところがやがて大きな傷口になるだろう。アレックスは虚空を見つめている。ふくらはぎにとげが食い込むのもかまわず、足を動かしつづける。アレックスは傷口から血が出るのを待っている。血が出てほしい。流れてほしい。全部流れてほしい。そうしたら死ねるから」。
「いずれにせよ、そういうことを考えることができたのは、檻に入れられてからしばらくのあいだだけだった。今はもう、2つ以上のことを論理だてて考えることができない。脳は体の苦痛を認識するのがやっとで、それ以上のことを受けつけない。こんな状態になる前は、仕事のことも考えた。アレックスは非常勤の看護師をしていたが、誘拐されたのはちょうど仕事を1つ終えた直後だった」。
「アレックスには夫も、婚約者も、恋人もいない。誰もいない。誰かが気にかけるとしても、それはアレックスがここで衰弱し、発狂して死んでから何か月もあとのことだろう」。
「写真が6枚保存されていた。板の間隔が広い木箱のようなものが写っている。木箱は吊り下げられていて、なかに女が閉じ込められている。若い。30くらいだろう。汚れた髪がべたりと顔に貼り付いている。全裸で狭い箱のなかに無理な姿勢でうずくまっている。6枚とも女は撮影者のほうを見ている。目の下に隈ができ、目つきがうつろだ。だが顔立ちはほっそりして、黒い瞳が美しい。頬がひどくそげているが、そうでなければかなりの美人だろう。だが美人かどうかはこの際問題ではない。6枚の写真からわかる重要なことは1つだけ、女が死にかけているということだけだった」。
迫りくるネズミの恐怖
「最初の1匹が顔を見せて以来、近くにネズミがいない状態が20分以上続いたことはない。とにかく入れ代わり立ち代わりやってきて、檻の上を歩いたり、ロープにぶら下がったり、かごのなかをのぞいたりしている。そして今、そのかごにはもう餌がない。揺れるかごのなかから数匹が顔を出し、こちらをじっと見つめた」。
「ネズミたちは頭がいい。飢え、渇き、凍えときたら、あとは恐怖を加えるだけでいいことを知っている。そして、そのために今度は一斉に甲高い声で鳴きはじめた。どこかから漏れている雨水が、風に飛ばされてアレックスの顔にも落ちてくる。アレックスはもう泣くこともできず、ただ震えた。死んだら楽になれると思っていたが、ネズミにかじられるとなると話は別だ。このネズミたちが自分をむさぼり食うのかと思うと・・・。9匹のネズミにとって、人間1人は何日分の餌になるのだろう? アレックスは身の毛もよだつ思いで泣き叫んだ。ところが、喉からはかすれた声しか出てこなかった。もはや声さえ出ないほど、アレックスは衰弱していた」。
ここまできたところで、「第1部の一節を紹介したけど、これは単なる誘拐事件ではなかったんだ」と言いながら、本を閉じた。
そして、「これ以上は話せないけど、第2部、第3部と進むにつれて、思いもかけないどんでん返しが、ええと、1つ、2つ、3つ――3つも待ち構えていたんだ。それを知りたかったら、自分で読むことだね。読み終わったら、体にも心にも震えがくると思うよ」とのたまうではないか。
戻る | 「第10章 人生はドラマだ」一覧 | トップページ