「のぼうの城」の真実・・・【情熱的読書人間のないしょ話(46)】
都内で女房とのデイトを楽しんだ後、最寄り駅から自宅まで歩いて帰る途中で、息を呑むような光景を目にしました。西の空が美しい橙色に染まっていたのですが、垂れ込めた雲間から突然、夕陽が顔を出したのです。衝撃的だったのは、その太陽がこれまで見たことのないほど大きく、しかも、めらめらと燃えているように感じられたからです。因みに、この日の歩数は21,329でした。
閑話休題、『戦国合戦・15のウラ物語』(河合敦著、PHP新書。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)には考えさせられました。本書に取り上げられている「石田三成――満天下にさらした戦下手」が、和田竜のエンタテインメント小説『のぼうの城』と同じ材料を扱っているのですが、その内容が両者であまりにも異なっていたからです。
和田作品では、忍(おし)城の籠城戦を指揮した成田長親(ながちか。渾名が「のぼう様」)が主人公として大活躍するのですが、史実に基づく河合敦のこの本では脇役に過ぎないのです。
豊臣秀吉が小田原城の後北条氏を攻めた時、「忍城(現在の埼玉県行田市)も、そんな数ある後北条氏の支城の一つで、秀吉にとって、小田原城を自落させるための促進剤にすぎなかった。が、この忍城攻めは、意外な結末をもたらすのである。・・・忍城が豊臣軍に包囲されたとき、城主・成田氏長は不在だった。・・・留守を預かっていたのは、城代・成田肥前守泰季をはじめ成田長親(泰季の嫡男)、本庄泰展、正木丹波守、坂巻靱負など一族・老臣だったが、実質的な権限は氏長の正妻・太田氏(甲斐姫)が握っていたといわれる。太田氏は、関東の名将と謳われた太田三楽斎(太田道灌の曾孫)の娘であった。彼女は豊臣軍の来週を前に、重臣たちを一堂に集めて作戦会議を開いた」。
「籠城にあたり、住人をことごとく城に集め、大軍に見せかけることになった。城内には侍69人、足軽420人しかいなかったが、農民や町人、さらには子どもまで籠めたので、男女あわせて総勢は3740人にふくれあがった。それに対し、6月4日に来攻した豊臣軍は、その数をはるかに凌駕する2万3000人だった。総大将は秀吉の寵臣・石田三成である」。
「三成は諸将に命じてたびたび城へ進攻させたが、城兵の士気が高いことに加え、狭路よりの侵入は困難を極め、兵は湿地に足を取られて敗退をくりかえした。そこで三成は、根本的に戦術を改めることにする。豊臣秀吉が毛利方の備中高松城で行った水攻めを実行することにしたのだ」。この水攻めは失敗に終わります。
「(石田側の)総攻撃では、城方は全員が一丸となって戦った。成田氏長の娘・甲斐姫も、みずから甲冑を身にまとい、半弓を手に出陣しているほどだ」。
石田側は総攻撃で大敗北を喫し、すごすごと退却します。「こうして豊臣軍の忍城総攻撃は完全な失敗に帰したのである。・・・石田三成はこの合戦で著しく評判を落とした。・・・忍城攻めでの失敗は、彼をして戦下手の評価を定着させることになってしまったのである」。
この後日談が、なかなか興味深いのです。「(主君の後北条氏が秀吉軍に降伏したため、秀吉に領地を没収された氏長は)天正19年(1591)、にわかに3万7000石を与えられ、烏山城主に取り立てられた。これは、忍城で奮戦した娘・甲斐姫のおかげだった。秀吉が彼女の美貌を見そめ、自分の側室としたからである」。
歴史から学ぼうとするとき、私は、できるだけ史実に近いテクストを選択することを心がけています。この意味で、河合が書いたものは信頼できると考えています。