日本人の祖先を最新のDNA分析で明らかにした本・・・【情熱の本箱(76)】
リブロ池袋本店で開催されている「新しいリベラルアーツのためのブックリスト」展に出かけ、小冊子「新しいリベラルアーツのためのブックリスト」を入手した。このコーナーには、「経済学」「現代思想」「震災学」「生死」「民俗学」「生命科学」「メディア論」「身体論」「言語」「古代史」「世界文学」「日本文学」「恋愛論」「音楽」「写真集」「映画」「演劇」など47の分野の専門家が、それぞれ3冊ずつ選んだ書籍が展示されている。予定以上に本を買い込んでしまったが、そのうち、三浦佑之が「日本列島に住む人々が、いかに寄せ集めで雑多であることか。そして、縄文人のDNAもちゃんと受け継いで我々が存在することのすごさを認識することから、歴史を考えたい」と推薦する『日本人になった祖先たち』の読後感を以下に記す。
私の人類進化に対する関心に画期的な影響を与えたのは、2001年に読んだ『イヴの七人の娘たち』(ブライアン・サイクス著、大野晶子訳、ヴィレッジブックス)であった。今回、読了した『日本人になった祖先たち――DNAから解明するその多元的構造』(篠田謙一著、NHKブックス)では、ブライアン・サイクスの著書について、こう述べている。「大多数のヨーロッパ人はミトコンドリアDNAの系統で見れば、この7つの母系のどれかに属していることになります。ですから、オックスフォード大学の遺伝学者、ブライアン・サイクスはミトコンドリアDNAから見たヨーロッパ人の歴史について書いてベストセラーになった著書に『イヴの七人の娘たち』というタイトルを付けました。ただし、(ハプログループ<遺伝的に先祖を共有する人たちの集団>の扱い方によっては)ヨーロッパにおけるイヴの子孫は一挙に増えて12人になります」。
『日本人になった祖先たち』は、最近20年間のDNA分析技術の進歩の成果を取り込み、日本人の進化に関する学説の3つの重要な論点・疑問点に答えを出している。第1は、20万~10万年前にアフリカで生まれ、7万~6万年ほど前にアフリカを出発した現生人類の祖先の新人がどのような道を辿って東アジアに到達し、そこから日本列島に渡ってきたのか、第2は、縄文人が住んでいた日本に大陸から稲作技術を持った弥生人が移り住んできたという日本人の「二重構造論」は正しいのか、第3は、渡来弥生人集団の規模はどの程度だったのか、そして、縄文時代から弥生時代へは平和的に移行したのか――の3点である。
読者の便宜を考えてか、先ず、「新人のアフリカ起源説」が「多地域進化説」に勝利を収めたこと、「アフリカ起源説」の勝ちに大きく貢献したサイクスの「ミトコンドリア・イヴ説」と「ネアンデルタール人・非祖先説」が紹介されている。
「ミトコンドリアDNAの分析からはアフリカを出発した人類が7万~6万年前以降にアジアの各地に進出したと推定されています」。「アフリカから東アジアへの拡散を考えるときに大まかには二つのルートが想定されます。一つは南アジアを経由するもの、もう一つはヒマラヤ山脈の北を通過する経路です」。「私たちの直接の祖先である新人が日本に現われたのは、4万~3万年前だと考えられています」。これが、いわゆる縄文人である。
「(東北アジア系の)弥生人は(旧石器時代人に繋がる東南アジア系の)縄文人とは姿かたちが異なっており、朝鮮半島や中国の江南地方から水田稲作をもたらした人たちだと考えられていますので、現在では渡来系弥生人と称されています。渡来系弥生人は最初北部九州に現われ、その後稲作の伝播とともに全国に広がっていったと考えられています。私たち日本人は、在来の縄文人の末裔とこれら渡来系の弥生人が混血して成立したと考える・・・。ですから、弥生時代には、大陸からわたってきた人たちと、縄文時代から日本に住んでいた人たちの少なくとも二つの集団が存在していたことになります」。
「日本人の成立については人骨の形態学的な研究から、弥生時代に大陸から北部九州地方に渡来した大量の移民が在来の縄文人と混血して成立したとする、いわゆる『二重構造論』が唱えられています。そのなかで、現代のアイヌと沖縄の人たちは、大陸からの渡来系移民の影響をあまり受けない縄文系の人々であると説明されています」。著者は、分子生物学の進歩を踏まえて、この説を支持している。
本書に頻出する「本土日本人」という言葉は、自然人類学の分野では普通に使われる用語で、アイヌと沖縄の人たちを除いた主として本州、四国、九州に住む日本人を指している。「本土の日本人集団は、おおむね朝鮮半島や中国東北部の集団に似たミトコンドリアDNAの構成をしているのですから、この地域の集団は、大きくは同じヒトの流れのなかで成立してきたと考えてよいでしょう」。「(アイヌと沖縄の人たちは)形質人類学や民俗学、文化人類学の研究も彼らを本土の日本人と区別するさまざまな証拠を持っています。ですから、日本は複数の異なる集団から構成される多民族集合体であるということになります」。「ミトコンドリアDNAのハプログループの頻度から見て、アイヌと沖縄の人たちは本土日本とはその構成が異なっている・・・。それは当然、それぞれの集団が異なった成立の経緯を持っているためであると考えられます」。
沖縄の人たちの成立については、「そのルーツは南九州にあると予想されます」。その南九州には「縄文時代から北部九州とは異なった集団が住んでいたようなのです」。「(沖縄に顕著な)ハプログループは非常に古い時代に南方から日本に入ってきたと予想されています」。
アイヌの人たちの成立については、「形態学的な研究からは、縄文人やその特徴を色濃く残すと言われる北海道のアイヌの人たちと北アメリカの先住民の近縁性が唱えられているのですが、これまでのアイヌの人たちのDNA分析からは、両者のつながりは見えてきませんでした。北海道の縄文人骨のDNA分析によって初めて両者の結びつきがDNAから証明されることになったのです」。
「現在では、考古学もおおむね二重構造論を認めていますが、縄文人と渡来した弥生人の比率をどの程度に見積もるかについては、人類学者と考古学者の間で意見が異なっています。人類学者は比較的多くの移民を仮定します。現在の私たちの持つ形質が、縄文人よりも渡来系弥生人に圧倒的に近いからです。これに対し、考古学では縄文・弥生移行期の遺物の研究から、少数の移民が持ち込んだ大陸の文化を多くの在来の人たちが受容したと考えて」いるが、著者は、「二重構造論」を提唱した人類学者・埴原和郎の「渡来人100万人説」よりも、考古学者の「渡来人数・当時の全人口の1割説」に軍配を上げている。そして、弥生人が縄文人を征服したのか、それとも両者が平和的に共存したのかについては、「征服による融合では、基本的に(男性しか持たない)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし、渡来人が縄文時代から続いた在来社会を武力によって征服したのであれば、その時点で(縄文人に由来する)ハプログルーDは、著しく頻度を減少させたでしょう。これだけの頻度でハプログループDが残っているのは、縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明ができません」。
『イヴの七人の娘たち』以後、久しぶりに知的興奮を覚えてしまった私。