榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

路地裏が好きな人には堪らない路地裏のエッセイ+写真・・・【情熱的読書人間のないしょ話(198)】

【amazon 『路地裏人生論』 カスタマーレビュー 2015年10月16日】 情熱的読書人間のないしょ話(198)

散策中に、いろいろなキノコを見つけました。私にはキノコの知識がなく、何という種類のキノコか分かりませんので、単にキノコと表現しておきます。テレビで毒キノコと紹介されていたものに似ているものも・・・。

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閑話休題、私は路地裏が好きで、ふらふらと入り込んでしまうこともしょっちゅうです。『路地裏人生論』(平川克美著、高原秀写真、朝日新聞出版)は、路地裏に絡まるエッセイと写真で構成されています。

「もはや時代に追い越され、風景の片隅に取り残された、路地裏の生活が、わたしに語りかけてくれるものを綴ったものです」。「『町の息遣い』とは何なのかということになりますが、それはわたしたちが繁栄と消費の過程で見失ってきたものが発している呼吸の音だと言えばいいかもしれません」。

「還暦を過ぎてから、目の前に広がる風景の見え方が随分変化しました。かつてなら、圧倒的な自然や、瀟洒な建物が並ぶ都市の街角や、雰囲気のある洒落たレストランといったものに惹かれることが多かったのですが、この頃は末枯れた商店街や、薄汚れた路地裏や、暗雲が垂れ込める殺風景な河川の光景に、思わず目が留まってしまいます」。著者のこの心境は、私にもよく理解できます。

「路地裏のしきたり」という文章は、こんなふうに綴られています。「路地裏には、路地裏のしきたりがある。それがどんなものであるのかについて、路地の外部から来たものは知ることができない。そのしきたりを熟知しているのは、陋巷に棲む名前のない猫である。猫の許可がなければ、わたしたちは路地裏の表面はなぞることができても、その細部にまでは侵入が許されない。そんな幻想を抱かせる小旅行だった。・・・とある路地をぬけて、工場へと続く道を歩いていたら、一匹の薄汚れた猫がこちらへ向かって歩いてくる。その姿は、『何しに来たんだ。ここはお前たちの来るところじゃない』といった風情で、その無愛想な表情からは、はっきりと拒絶の意志が感じられた。肩をいからせて、まるで『通せんぼ』をしているような感じでこちらに向かって歩いてきたのである。その町は、東京の南のはずれにある。昭和三十年代から時間を停止したまま、町の色を濃くしている大森南四丁目あたり。このあたりには、そこいら中に町工場が並んでいる。『こうじょう』ではなく『こうば』である。おそらくは、年老いた職人が数名で操業しており、半世紀昔の活気は、徐々に減っている仕事とともに、やせ細ってきている。・・・『通してくれないか』。わたしたちは、路地裏の主である猫に目で合図した。ここを通る権利はないのかもしれないが、それでも半世紀の時間をこの目で確かめておきたかったのだ。猫は、何も聞こえていないかのように、無言でわたしたちの脇を通り抜けて、どこかへ去っていってしまった」。著者たちは、この辺りで生まれ、育ち、そして青年期にここを巣立っていったのです。

裏表紙の写真には、著者らしき初老の男性が苔生した路地裏を歩いていく後ろ姿が写っています。こういう路地裏は私の好みにぴったりです。