真の反戦とは何か・・・【情熱的読書人間のないしょ話(255)】
散策中に見上げた冬の昼の月は、荒涼とした中にも、風情があります。直径40cmもあるハボタンを見かけました。クロガネモチの小さな赤い実が陽に輝いています。冬空の夕焼けは何か懐かしい感じがします。因みに、本日の歩数は11,985でした。
閑話休題、『戦中派の死生観』(吉田満著、文春学藝ライブラリー)は、戦争での死を覚悟していたのに生き残った戦中派の吉田満のエッセイ集ですが、随所に心を打つ言葉が刻まれています。
とりわけ、「青年は何のために戦ったか」という一文は、私たちの心に深く重く突き刺さってきます。「私がこの小論で試みようとするのは、みずから太平洋戦争を戦った青年たちを主役にして、この問いかけを捉え直すことである。彼らが書き残した手記、遺書、手紙を主な手がかりとして、彼らが何ゆえに戦争協力を拒否せず、何を目的として戦闘行為に殉じようとしたかを、鮮明することである」。
「戦場では常に死の危険が身辺に漂うが、出撃を目前にした特攻隊員が直面しなければならないのは、それとはまた別の緊迫感であった。・・・平静さではなく、内心は煮えたぎるような苛立ちとたかぶりであったかもしれない。青年として未来にどのように豊かにも夢想しえた可能性が、寸分も狂いない出撃計画に従って、いっさい失われようとしているのである」。
「悠久の大義、いや空白のみ。空白の中を探り求めて、おのれをみつめ、おのれを超えようとする。そして祖国と同胞のために殉死する。・・・青年は何のために戦争に協力したのかという設問を解いていくと、われわれはこのようにからみ合う中にとらえられる。それは難問がいく重にも折り重なって、青年の上におおいかぶさっているからである。・・・平和とナショナリズム、自由と同胞愛、正義の立場と不義の立場、戦争への疑問と忠誠義務。矛盾の中に落ちこんだまま脱却の方向が見きわめられないとすれば、残された道は、眼を現実から未来に向けることしかない。今自分がおちいっている混迷から、未来に向って一歩でも前進発展があることを期待し、期待から生れる願望、懇願を書き残しておくことしかない。書き残すその寸言隻句こそ、生命を代償にかちえた収穫であり、それが後の世代のただ一人の同胞の眼にふれただけでも、自分という人間がこの世に生をうけた意味があると、納得するほかないのである」。死を覚悟せざるを得なかった彼らの思いは、痛切です。
「反戦は言葉や思想というよりも、意志であり、行動である。戦争は一言でいえば国家間の武力抗争であり、反戦の本質は、国家権力そのものに対する敵対行為という点にある。したがって実行に移された反戦行為は、国家権力によって規制され、処罰されるのが通例である。反戦という行動の背景が、文字の形で記憶されることが少ない理由の一つは、そこにある。その中にあって、ゾルゲ事件のスパイ容疑で処刑された尾崎秀実が、家族あてに書きのこした最後の言葉、『大きく目を開いてこの時代を見よ。真に時代を洞見するならば、もはや人を羨む必要もなく、またわが家の不幸を嘆くにも当らないであろう』は、思想の大きさを示すものとして注目に値する。真の反戦は、戦争の性格や平和の条件の判断をこえて、絶対平和の立場に立つものでなければならない。正義の戦争ならば支持し、不義の戦争には反対するという立場が、過去も現在も有力であり、第二次世界大戦の骨格も、正義の側に立つ連合国の当然の勝利として捉える見方が大勢であったが、戦後史の30年(今から40年前に書かれている)は、この見方の正当性を裏付けてはいない。・・・ある種の戦争ならば支持するという主張を含む反戦が、真の反戦になりえていないことは、明らかである」。著者は、戦争で死んでいった仲間たちに対して、生き残ってしまった人間としての責任を果たそうとしているのです。