アウシュヴィッツの囚人写真家が撮影したものとは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(368)】
千葉の利根運河では、気の早い鯉幟が並んで泳いでいます。我が散策コースでは、ネモフィラの水色の花が咲いています。シーラ・ペルヴィアナの豪華絢爛ですが何とも形容し難い花も咲いています。黄緑色の壁に見えたのは、キンキャラの新芽でした。白い小さな花が手毬のように咲いているコデマリを見つけました。コデマリより大振りなオオデマリも咲いています。コデマリとオオデマリは名前も外見も似ていますが、科は遠縁だそうです。レッドロビンが白い小さな花を付けています。カラタネオガタマの花冠が黄白色で基部が紅紫色の花はバナバのような匂いを放っています。因みに、本日の歩数は10,461でした。なお、5月5日には、コイがこんなに増えていました。
閑話休題、『アウシュヴィッツの囚人写真家』(ルーカ・クリッパ、マウリツィオ・オンニス著、関口英子訳、河出書房新社)は、アウシュヴィッツ強制収容所の囚人、ヴィルヘルム・ブラッセがナチスに命ぜられて、4年間に亘り、仲間の囚人たちの死直前のポートレートを取り続けた事実を物語化したものです。
「あたり一帯に、重苦しい臭気がよどんでいたのだ。何週間も洗っていない人間の体臭。耐えがたい悪臭が喉のあたりにうっと押し寄せ、ブラッセはあとずさりしたかと思うと、撮影室に逃げ込み、ドアを閉めた。それまでは撮影に没頭していたため気づかなかったのだが、悪臭はほかでもなく、その場にいる女性たち(=撮影される順番を待って立っている女囚たち)から発せられていた」。
「『あれのときだよ。つまり、月のもの・・・』。タデックは高笑いをしながら首を横にふった。『そんな心配はまったくないさ』。『どうしてだ』。『どうやら、自然現象はドイツ軍の味方らしい。寒さと空腹のうえに、殴られてばかりいれば、月のものなんて来なくなるさ。女たちはみんな月経が止まってるらしい』。ブラッセは、吐き気の塊が喉もとまでこみあげるのを感じ、思わず窓辺に駆け寄った」。
「テーブルの上にひろげられていたのは、(囚人の)カロルの背中も皮だった。四隅におもりが置かれていて、動かないようになっている。ブラッセは、あまりの衝撃に打ちのめされながらも、人間の背中の皮をそっくり剥がすというのがどのような行為なのか考えずにはいられなかった。そして、その場にしゃがみ込も、嘔吐した。ミエツスワフは、ブラッセも目をまっすぐ見返した。『(SS<親衛隊>の医師のエントレスから)皮を慎重に扱うようにと言われたよ。本を装幀するのに使うから、丁重になめしてくれってな。頭のおかしな医者が本の装幀に使いたいという理由だけで、一人の人間が死んでいったんだ』」。
「(収容所の副所長の)フリッチュが演説をしたのはたった1分ほどだった。『いいかね、諸君。ここは保養所ではない。強制収容所だ。ここでは、ユダヤ人の命は2週間、聖職者は3週間、一般の囚人は3か月。全員がいずれ死ぬことになる。それをしっかり頭に叩き込んでおくんだ! それさえ忘れなければ、苦しみも少なくて済む』」。
「(収容者たちは)ようやく、公開処刑のために呼び集められたのだということがわかり、絞首台に目をやった。男と女が一人ずつ、広場の隅に引きずり出され、カポたちに小突かれながらロープのほうへ進んでいく。・・・次の瞬間、SSが椅子を蹴飛ばした。二人の体は、地面から50センチの高さで宙吊りになった。刑の執行がおこなわれているあいだじゅう、カポたちは広場にいる収容者に目を光らせ、目を伏せる者は容赦なく鞭で打った。刑が見せしめとしての役割を果たすためには、公衆の見守るなかで執行されなければならなかった。その場にいる全員がそれを見届け、無言で教訓を学ぶ必要があるのだ」。
「17、8歳の少女が、皮下注射された麻酔薬の影響で完全に眠らされていた。(ザムエル)医師の手に握られた鉗子が、静かに、ゆっくりと、それでいてなんのためらいもなく少女の体内に挿入される。数分後には少女の子宮が膣から丁寧に引き出され、バットの中に入れられた。一人が済むとまた別の一人と、少女が中に呼ばれる。ブラッセは、彼らのすることに立ち会い、写真を撮った。ザムエル医師は、子宮を摘出しても後遺症は残らないと説明していたが、手術を終え、写真撮影も済んだ少女たちには利用価値がなくなり、死を待つばかりだということをブラッセは嫌というほどわかっていた」。
「ある晩ブラッセは、独りでラボにこもり、おびただしい数の死体が炎に包まれている光景を撮った写真が細部まできちんと現像できているかをチェックしていた。100体はあっただろうか。いや、痩せた死体ばかりなのだから、もっとあるはずだ。そして、身の毛もよだつその画像の隅々を見ているあいだ、心の奥がえぐられるのを感じた。それは、冷酷無比な上官が趣味のために撮ったものではなく、17号棟の囚人数名が、焼却炉で働いているミエチスワフの協力を得て撮影したものだった。想像を絶するおぞましさを記録にとどめるべきだと考えた囚人たちが、ミエチスワフを介して名簿記載班からポータブルカメラを借り受け、収容棟の窓から秘密裏に撮ったのだった。それは危険きわまりない行為だったが、十分にやる価値があった。計画を率先した囚人たちによると、撮影された写真は極秘で収容所の外に持ち出され、惨劇を世界に伝えることになっているらしかった」。
腕のいい写真技師として重宝がられたことで、グラッセは4年半もアウシュヴィッツで生き延びることができました。解放後、故郷に帰った27歳のブラッセは写真の技術で身を立てようと考えますが、二度とカメラを手にすることはありませんでした。ファインダーを覗くと、アウシュヴィッツで死んでいった人々の顔がちらつき、悲惨な過去から逃れることは到底不可能と悟ったからです。
ブラッセは、休みなく働き続けた4年の間に、およそ4万枚から5万枚の肖像写真を撮ったのではないかと推算されています。SSがアウシュヴィッツから撤収する数日間、ブラッセは写真を処分せよとの命令に背き、命の危険を冒して多くの写真を救いました。それらがナチスの残虐行為を暴き、人類がそれを記憶し続ける上で重要な役割を担う決定的証拠となったのです。
囚人という立場で、これほど長い期間、これほど間近で、ナチスの許されざる行為を見続けた一人の男の記録は、他に類例のない貴重なものです。