この小説のおかげで、死に親しみが感じられるようになった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(276)】
ウメは、紅梅も白梅もちらほらと咲き始めています。一方、早咲き種の紅梅はもう満開です。早くも赤い花をたくさん咲かせているツバキも見かけました。因みに、本日の歩数は14,644でした。
閑話休題、若い時はともかく、年齢を重ねた人間にとって、「死」は最も切実なテーマの一つと言えるでしょう。その死について、あうだこうだと小難しい考察を連ねる下手な哲学書よりも、『ダイヤモンドダスト』(南木佳士著、文春文庫)を読むほうがよっぽどましだと感じました。
地方の小さな町立病院の看護士になって10年の和夫が、この小説の主人公です。和夫はさまざまな死に遭遇します。和夫が小学4年生の時の母の病死。悪性腫瘍の肺転移による、24歳という若過ぎる妻の死。入院患者で肺がんがあちこちの臓器に転移した45歳のアメリカ人宣教師の死。そして、惚けた父の死。これらの死が静謐に淡々と描かれていきます。人は死ぬ時はあっけないほど簡単に死んでしまうことを思い知らされます。
登場する人物は、死者も生者も、いわゆる普通の人たちですが、死者たちはじたばたとあがくことなく、従容と死に向き合っています。
例えば、妻・俊子の場合は、このようです。「(短大1年の時に)左腕の腫瘍を手術してから、私は自分が死ぬ日のことを考えながら生きてきた、と病床で俊子は言った。明日や、今日の午後の存在すら頼りにできない生活は、今を大事にするしかないので、一所懸命だった。隠すつもりはなかったけれど、明日を信じる人たちにとっては聞きたくないはずの暗い話題をあえて口にすることができなかった。医者からはっきり予後を告げられたことはなかったけれど、だめになっていく体のリズムの変調は自分が一番よく分かった。結婚して、子供を産んで、勝手だし変な話だけれど、動物の、哺乳類の雌として果すべき役割りができたことに不思議な安心感がある。こんな生活を提供してくれたことに心から感謝したい。最後の数年間を、東京のビルに圧迫された土地ではなく、この深い森に囲まれた家の一員としてすごせたことは、死を安らかなものと思い込むのにとても役に立った。勝手を許してくれてありがとう。病床で俊子は多くのことを語ったが、要約すると以上のようになる。・・・自分が死ぬ時期を知ってるってことは、もしかしたら幸福なことなのかも知れないって、最初は無理に思い込んでたんだけど、今ではほんとうにそういう気がするの。先に行ってます。待ってたら悪いから、とにかく先に行ってますね」。
宣教師、マイク・チャンドラーの場合は、こう描かれています。「『どうしました』。(ナースコールで呼ばれた)和夫は窓とマイクの間に割り込んだ。『ああ、あなたでよかった』。マイクは蒼白な顔に、口の周囲だけシワを寄せた。話をすると、肉の落ちた目の縁を眼鏡がすべり落ち、一瞬、完璧な老人の顔になった。『星を見ていたら、たまらなく誰かと話がしたくなったのです。ご迷惑ではありませんか』。マイクは眼鏡を右手で押さえながら、頭を下げた。・・・マイクは落ちてくる眼鏡をいく度も右手で押し上げていたが、やがて高い鼻の先端にとどめたままにし、顔をのけ反らせて夜空を仰いだ。『誰かこの星たちの位置をアレンジした人がいる。私はそのとき確信したのです。(ヴェトナム戦争で対空砲火を受けて)海に落ちてから、私の心はとても平和でした。その人の胸に抱かれて、星たちとおなじ規則でアレンジされている自分を見出して、心の底から安心したのです。今、星を見ていて、あのときのやすらかな気持を想い出したかったのです。誰かに話すことで想い出したかったのです』。話し終えると、静脈の浮くマイクの細い首から、タンのからむ嫌な音が聞こえ始めた」。
この小説のおかげで、これまでよりも死に親しみが感じられるようになりました。そして、南木佳士は、私の好きな現役小説家の一人となりました。