「二重らせん」のワトソンとクリックを告発する理由・・・【MRのための読書論(43)】
MRと分子生物学
分子生物学の知識なくして、MRが自信を持って医師・薬剤師に向き合うことは困難だろう。必修科目ともいうべき分子生物学の足跡と最前線を学ぶのに、『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著、講談社現代新書)は恰好のテクストであり、その上ゾクゾクするほど面白い。
分子生物学の幕開け
科学専門誌「ネイチャー」1953年4月25日号に1ページ余りのごく短い論文が掲載された。そこには、DNAが、互いに逆方向に結びついたらせん状の2本のリボンから成っていること、すなわち、二重らせん構造をしていることが示されていた。論文の共同執筆者ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによって分子生物学時代の幕が切って落とされた瞬間であった。
ワトソンとクリックの犯罪
この掲載に先立つ1953年2月上旬、世界中の研究者がDNAの構造を解明すべく、激しい競争に明け暮れていた。24歳のワトソンと36歳のクリックも、野心を燃やし、演繹的アプローチ(一般的な前提から、経験に頼らずに論理によって個別の結論を導き出す方法)によってDNA構造に迫ろうとしていたが、思考を飛躍的に推し進めるデータや観測事実が欠けており、焦慮していた。
一方、32歳のロザリンド・フランクリンは、女性、ユダヤ人という当時のハンディキャップを乗り越え、個々のデータと観察事実を地道に積み上げていく帰納的アプローチ(個々の具体的な事実から共通点を探り、そこから一般的な原理や法則を導き出す方法)でDNAの構造解明を目指していた。
当時、フランクリンは職場の先輩モーリス・ウィルキンズと衝突を繰り返しており、その半面、ウィルキンズはワトソン、クリックとは友好関係にあるという背景の中で、事件が発生するのである。ウィルキンズがフランクリンの撮影したDNAの三次元形態を示すX線写真を密かに複写したものを、ワトソンにこっそり見せてしまったのだ。ワトソンの自伝『二重らせん』(ジュームズ・ワトソン著、江上不二夫・中村桂子訳、講談社文庫)には、「その写真を見たとたん、私は唖然として胸が早鐘のように高鳴るのを覚えた。・・・写真のなかでいちばん印象的な黒い十字の反射はらせん構造からしか生じえないものだった」と書かれている。データを横流しした悪役として描かれているウィルキンズは、その自伝『二重らせん 第三の男』で見え透いた言い訳をし、クリックは自伝『熱き探究の日々』の中で、「私の方は当時、その写真を見たことがなかったのだ」と嘯いている。
ところが、これにとどまらず、クリックは2月中旬に、フランクリンが全く与り知らぬ間に、DNAに関する彼女のデータを覗き見していたのだ。というのは、フランクリンが研究資金の提供を受けていた英国医学研究機構に提出を義務づけられていた研究報告書を、クリックは審査委員のマックス・ペルーツから入手して見ることができたのである。「この報告書はワトソンとクリックにとってありえないほど貴重な意味をもつ文書だった。そこには生データだけでなく、フランクリン自身の手による測定数値や解釈も書き込まれていた。つまり彼らは交戦国の暗号解読表を入手したのも同然だったのである」、「おそらく、ワトソンとクリックはこの報告書を前にして、初めて自分たちのモデルの正しさを確信できたのだ。すぐに彼らは論文を『ネイチャー』誌に送った」と、ライヴァル研究者のアンフェアなルール違反に対する著者の告発は手厳しい。
ノーベル賞の光と陰
1962年の暮れ、ノーベル賞授賞式の檀上には、生理学・医学賞のワトソン、クリック、ウィルキンズと、化学賞のペルーツの輝くばかりの晴れ姿があった。著者の表現を借りれば、「ある意味で『共犯者たち』がその場所にそろったのである」。最も重要な寄与をしたフランクリンは、彼らの犯罪を知ることなく、4年前の1958年4月、卵巣がんに侵され37歳でこの世を去っていた。X線を無防備に浴び過ぎたことが、彼女の早過ぎる死に繋がったのではないかといわれている。