科学史がこんなに面白いとは!・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1480)】
キビタキの雄を撮れるのは今日辺りが今シーズン最後かもしれないと、またまた千葉・野田の清水公園に出向いたが、撮影に至らず。たまたま出会ったバード・ウォッチャーのK.N.氏はキビタキの雄、コジュケイの雌の撮影に成功。バード・ウォッチャーとしてのレヴェルの差を痛感しつつ、K.N.氏撮影の写真を借用して掲載します。私はヤマガラをカメラに収めました。白いフジが満開を迎えています。金乗院の仁王門の仁王たちが、腐らずに頑張れよと励ましてくれました。因みに、本日の歩数は19,081でした。
閑話休題、『35の名著でたどる科学史――科学者はいかに世界を綴ったか』(小山慶太著、丸善出版)では、科学史に大きな影響を与えた35の著作が取り上げられています。
アイザック・ニュートンの『プリンキピア』(1687年)は、このように説明されています。「『プリンキピア』は3編からなるが、本論の前に『公理あるいは運動の法則』の項が設けられ、今日、教科書でおなじみの運動の3法則が提示されている。その第1法則として、デカルトが『哲学原理』で述べた慣性の法則があげられている。第2法則は『運動変化は加えられた動力に比例し、かつその力が働いた直線の方向に沿って行われる』と表現されている。今日では、これはニュートンの運動方程式として知られる微分方程式によって記述されている。そして、第3法則が作用反作用の法則である。続く本論は『物体の運動』、『抵抗を及ぼす媒質内での物体の運動』、『世界体系』の3編から構成されている。『リンゴのエピソード』で知られる重力の法則は第1編で導き出されており、ケプラーが見出した惑星運動に関する3つの法則の証明もここで行われている」。
「歴史上の面白いエピソードにはフィクションも多いが、ニュートンのリンゴは実際に起きた、天才の若き日の出来事であったのである」。
チャールズ・ダーウィンの『種の起原』(1859年)は、こう位置づけられています。「ニュートンの『プリンキピア』はケプラーの法則に従う惑星運動の神秘を力学によって解き明かし、物理学は近代科学の要件を整えた最初の学問となった。続いて、近代科学の仲間入りを果たしたのが化学になる。ラヴォアジエの『化学原論』により、神秘的な営みの象徴であった錬金術が斬り捨てられ、化学的な方法での元素の変成を否定する新しい物質観が生まれたのである。そして、1859年、ダーウィンが『神秘中の神秘である種の起原に光明を投げかける』と告げた書が出版され、これを機に、生物学も近代科学としての歩みをたどり始めることになる。いずれも、神秘との決別がキーワードであった。ただし、いずれの場合もそうであったように、神秘は一朝一夕に消え去ったわけではなかった。よく知られているように、『種の起原』が発表されると、ダーウィンの説は聖書の記述に反するものであるとして、宗教家から激しい批判を浴びた」。
エミリオ・セグレが『X線からクォークまで』(1980年)の中で、湯川秀樹の業績に言及しています。「セグレは湯川の中間子論の簡単な要約を述べている。湯川がこの論文を発表したのは、まだコンピュータなどなかった1935年のことである。したがって、すべて紙とペンによる計算を遂行し、核力の特性から量子力学に基づいて中間子の質量をはじき出したのである。コンピュータを駆使した『腕力勝負』に頼らない時代の優雅さを感じる論文である。そして、セグレはその骨子をフェルミのベータ崩壊(原子核が電子とニュートリノを放出する現象)の理論と関連づけながら、わずか1ページで簡潔に紹介している。みごとなほどの手際の良さには感心させられる」。
アルベルト・アインシュタインの相対性理論の最初の論文「運動物体の電気力学について」(1905年)については、こう記されています。「物理学界ではまだ無名であった26歳の若者が一人、相対性原理に込めた強い信念をもって、大胆にもこれほど常識破りの理論を躊躇なく発表した勇気には驚かされる。特殊相対性理論の『特殊』という意味について簡単に触れておこう。1905年の論文では、互いに等速直線運動を行う観測者に限定して論理が展開されていた。等速運動――ここには静止も含まれるが――は運動状態の中で特殊なものなので、後にこの名称がつけられるようになったのである。アインシュタインはさらに話を加速度運動まで拡張して一般化し、重力を取り込んだ一般相対性理論を10年かけて完成している」。
エドウィン・ハッブルの『銀河の世界』(1936年)に関して、ハッブルとアインシュタインとの興味深いやり取りが紹介されています。「ハッブルの法則が発表されるまでは、宇宙は静的なものと考える科学者が多かった。アインシュタインもそう強く信じる一人であった。1917年に発表した一般相対性理論に関する論文で、天才は人為的に――物理学的に明確な根拠を示さぬまま――宇宙を静的に保つ操作を強引に行っているほどである。ところが、1931年、ウィルソン山天文台を訪れたアインシュタインは、ハッブルと助手のヒューメイソンが撮影した銀河のスペクトル写真を見せられた。科学はなんといっても、確かな証拠がすべてである。このとき、ハッブルの主張に納得したアインシュタインは、すぐさま、新聞記者たちに向かって、静的な宇宙モデルを放棄して、膨張する宇宙を支持すると話したという」。
ジェームズ・ワトソンの『二重らせん』(1968年)に絡めて、ワトソンとフランシス・クリックの業績は、こう評価されています。「ワトソンとクリックが成し遂げたことは物質科学と生命科学という異分野が融合するという歴史的な出来事であった。換言すれば、物理学の方法の汎用性の高さを示す出来事でもあった。DNAの二重らせんは遺伝のメカニズムを解き明かし、広範囲に応用される遺伝子工学という新しい技術を生み出したことを考えると、20世紀でもっとも偉大な発見の一つに位置づけられようが、同時にそれは科学方法論の視点で捉えても、偉大で革新的な前進であったのである」。
「(『二重らせん』の)相当にあくの強いワトソンの筆致はいささか辟易させられる箇所も多々あるものの、そうした個性の強さから、科学研究にかけた一人の青年の情熱が読み取れる。たとえそこにノーベル賞をターゲットにした野心と自己顕示欲がむき出しになっていても、一つのことにこれだけ精神を集中させ、ついにはそれを成し遂げた生き方には心打つものがある」。
『二重らせん』刊行の7年後に、アン・セイヤーの『ロザリンド・フランクリンとDNA』(1975年)が出版されます。「フランクリンとはDNAのX線回析写真を撮影し、ワトソンとクリックが二重らせんモデルを組み立てるのに貢献した女性科学者である。ワトソンは自著の中で、彼女の業績に高い評価を下さなかっただけでなく、ロザリンドを『ロージー』と呼び、個人攻撃とも取れる感情的な批判を繰り返し綴っている。不幸なことに、フランクリンは1958年、37歳の若さで病死したが――したがって、本人は『二重らせん』の中で自分がこき下ろされることを知ることなく亡くなっている――、『義憤』を感じたセイヤーがいわば本人になり代わって、反論の筆を執ったのである。・・・フランクリンの科学上の業績については二重らせん模型にたどりつくまでの流れを考えると、彼女が果たした役割の重大さを主張するセイヤーの論に説得力を感じる」。私も『二重らせん』と『ロザリンド・フランクリンとDNA』を読み比べたが、フランクリンに軍配を上げたい気持ちになりました。
科学史がこんなに面白いとは! 読み応えのある一冊です。