榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

三波春夫は、努力の人、克己の人、勉学の人だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(434)】

【amazon 『昭和の歌藝人 三波春夫』 カスタマーレビュー 2016年6月28日】 情熱的読書人間のないしょ話(434)

散策中に、花弁の内側は薄紫色で、外側は白く、多数の長い雄蕊が美しい花を見かけました。小学館の図鑑NEO『花』で調べたら、フェイジョアと分かりました。因みに、本日の歩数は10,349でした。

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閑話休題、私は気分が落ち込んだときは、書斎に籠もり、ヴォリュームを上げて三波春夫の長篇歌謡浪曲のCD「曽我の討入り」「俵星玄蕃」「立花左近」を聴くことにしています。すると、すっきりして、再び挑戦する勇気が湧いてくるのです。

私が三波を気に入っているのは、その歌が心に沁みるだけでなく、彼の生き方に共感を覚えているからです。今回、『昭和の歌藝人 三波春夫――戦争・抑留・貧困・五輪・万博』(三波美夕紀著、さくら舎)を読んで、このことを再確認することができました。

「最晩年に、自分が完治には至らない病気だと知ってからも、『なんで、おれがこんな病気にならなきゃいけないんだ』とか、嫌になったとか、愚痴を言ったことがなく、いつもどおりの笑顔の三波でした。克己心を持ち続けた人だったと思います」。「1994(平成6)年の1月、三波の前立腺がんがわかって以来、病気を公表することなく、周囲の誰にも伝えることなく7年間、三波は普段と変わらずに仕事を続けました。そして、2000(平成12)年12月に最後の入院となり、翌年の4月に亡くなりました」。

「晩年でも、顔のしわがあまりありませんでした。姿勢がいいこと、腹式呼吸で歌うこと、いい声のために8時間以上の睡眠を心がけていたことなどが良かったのだと思います。それと、つねに明るい気持ちでいようという心がけでしょう」。

三波は、若い時から努力の人でした。「小学校を卒業して、もっと上に進みたかったのに奉公に出ることになって、三波の学びは耳学問となり、実社会が学校となりました。16歳で入った浪曲の世界では弟子入りすることもなかったので、師匠の代わりに『教えてください』と先輩の胸に飛び込んで、多くの方からいろいろなことを教えてもらったのでした」。

そして、歌うこと、書くことが好きな人でした。「シベリア(抑留)時代にたくさんの新作浪曲や脚本を書いたこと・・・旺盛な創作力は生涯尽きることはありませんでした」。「三波は、『長篇歌謡浪曲』をはじめ、台本や歌の詞を書く作業を、三度の食事と同じように飽きることなく、『きょうはノラないぜ・・・』などという顔を見せることなく、日々コツコツとやっていました。書くのはもっぱら、仕事を終えた夜の時間帯でした。地方公演先でも一日2回のショーの終演後、宿での夕食を終えて入浴もすませたあとです。お酒を飲まない人でしたので書けました。ちなみにタバコも吸わない人でした」。

私の好きな長篇歌謡浪曲については、こう記されています。「歌で始まり歌で終わる作品のアンコに堂々と、浪曲の節と啖呵を入れた作品を書き上げて発表してヒットさせました。そして、ひとつのジャンルとして確立させたのが『長篇歌謡浪曲』でした。その『長篇歌謡浪曲』の代表曲となったのは、『元禄名槍譜 俵星玄蕃』です」。「歴史書を山と積み上げて、調べて読み込んで、書いて、節をつけます。その後、編曲者が譜面を書いて、ひとつの『長篇歌謡浪曲』が生まれます」。「『長篇歌謡浪曲』は生涯で40作ほどを発表しています」。

そして、三波は勉強家でした。「『歴史を学ぶとは、教科書の年号を覚えるものではなく、真の人間の姿を学ぶことです。その時、誰がどう動いたから成功したのか、どう考えたから失敗したのかなどを学ぶことは、私たちの未来への道を見出すのに大事なことです』。そう語っていたとおり、地道に歴史を研究して、『今、世の中に発表するのならばこの人物の生き方か。この歴史の動きか』と考えて題材を選び、多様な作品を残しました。人生に思い悩んだとき、勇気が出ないとき、少しでもお役に立つことを願いながら・・・」。

そして、三波は愛妻家でした。

本書を読んで、ますます三波春夫を好きになってしまいました。