ヘンリ・ライクロフトの静寂と瞑想の日々・・・【リーダーのための読書論(26)】
ヘンリ・ライクロフトの生き方が、私の理想である。当時、53歳であったライクロフトに出会ったのは、私が30歳のときであった。彼は英国の南イングランドの片田舎に隠退し、さまざまな思索にふけりつつ静かな余生を送っていた。移りゆく自然に心を惹かれ、読書をこよなく愛する男がここにいた。死について、常に思いを凝らしている男がここにいた。
それ以来、『ヘンリ・ライクロフトの私記』(ジョージ・ギッシング著、平井正穂訳、岩波文庫)は、私の最も身近な愛読書となり、今日までに7回も読み返している。失意のとき、寂しいとき、自信を喪失したとき、私は必ずこの書に戻ってくる。私が惨めな状態にあろうと優しく迎えてくれる老妻のような、この本に慰められて、私は再び猛々しい戦場へ帰っていく。
「昨日、私はニレの並木道のそばを通った。木立と木立の間に挟まれた道は、一面に見渡す限り落ち葉で覆われていた。まるで薄い黄金色の絨毯であった。さらに進むと、ほとんどカラマツばかりの植え込みに出た。それは濃い黄金色に輝いており、ここかしこに点々と血のように真っ赤な色が見られたが、それはかりそめのまばゆいばかりの秋色に輝く若いブナの木であった」と、ライクロフトの周囲の自然に対する目は細やかだ。
「平和な憩いの一夜が明ければ、悠々と起き、いかにも老境に近い男にふさわしくゆっくりと身じまいをし、今日も一日中、本が読める、静かに本が読めるといういい気持ちに浸りながら階下に下りてゆく」、「この部屋のしみじみとした静けさはどうだ! ・・・幾列にも並んでいる愛する書物をずっと見回している」、「書棚に新しい本を一冊置くとき、『私の読書する視力が続く限りはそこに並んでいてくれ』と私はその本に向かって言うのである。そんなときは嬉しさのあまり体がぞくぞくする」、「自分の楽しみのために、自分を慰め、強めるために本を読むのだ」、「物静かで心を静めてくれる書物、高潔で心を激励してくれる書物、一度ではなく再三再四熟読玩味するに足る書物等々」といった表現からも明らかなように、彼の生活は読書、散策、思索で成り立っており、静寂に満ちた学究的、瞑想的な日々を送っている。
「実にしばしば私は死のことを考える。死という考えが、いつも私の心の底流に存在するからである」と述べるライクロフトに、私は、自分と同じ考え方をする人間、自分と同じ感じ方をする人間を発見したのだ。私と同様の発見をした人々によって、本書は、出版以来100年に亘り、愛され、読み継がれてきたのだろう。
著者のジョージ・ギッシングは、病弱の体を押して、貧困の中でこの書を書いた。43歳のギッシングは、10歳も年長のライクロフトになり切って、この作品を7週間で書き上げた。そして、この本が出版された数カ月後に、彼は病死してしまう。彼がライクロフトの死として思い描いていた臨終とは、およそかけ離れた悲しい最期であったという。
『エセー』(ミシェル・ドゥ・モンテーニュ著、荒木昭太郎訳、中公クラシックス、全3巻)には、『ヘンリ・ライクロフトの私記』と同質の雰囲気が漂っている。先ず、Ⅰ巻の「哲学すること、それはどのように死ぬかを学ぶことだ」という章から読み始めてほしい。モンテーニュという人物をもっとよく知りたいという向きには、『ミシェル 城館の人』(堀田善衞著、集英社文庫、全3巻)がある。
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