徳川将軍家、御三家、御三卿、諸大名家の後継争いの真相・・・【情熱的読書人間のないしょ話(462)】
散策中に、紫色の葉と桃色の花が鮮やかなコントラストをなしているムラサキゴテンを見つけました。大輪の赤いフヨウ、桃色のフヨウが咲いています。子供の頃、よく遊んだジュズダマが実を付けています。トクサが林立しています。アサガオも頑張って咲いています。因みに、本日の歩数は10,009でした。
閑話休題、『大江戸御家相続――家を続けることはなぜ難しいか』(山本博文著、朝日新書)は、江戸時代の後継争い事典といった趣で、徳川将軍家、御三家、御三卿、諸大名家の骨肉相食む内紛劇の真相が暴かれています。
一番凄まじいのは、御三卿の一つ、一橋家の事例です。この事例の黒幕とも言うべき一橋治済(はるさだ)については、井沢元彦が『逆説の日本史(15)――近世改革編 官僚政治と吉宗の謎』(井沢元彦著、小学館文庫)の中で、その政治的人間としての発想と行動力を鋭く剔抉していますが、本書でも彼の腹黒さが生々しく描出されています。
「一橋家は(8代将軍・徳川)吉宗の血筋のうち、四男の宗尹を初代として始まりました。一橋家は御三卿で唯一将軍を出した家門です。家格は横並び、規模も同等ながら、なぜ一橋だけが将軍を出せたのか。そこには将軍位をめぐる権勢争いがありました。宗尹の子ども達は、長男と三男が越前松平家を継ぐべく家を出ており、また次男が夭折していたため、必然的に四男の治済が継ぐことになりました。2代治済はたいへんな陰謀家で、自身と血筋が有利になるためなら手段を選ばない人物であったとされます。(松平)定信が田安家を出た一件にも、治済が関わっていました。この時、治済が、将軍世子(徳川)家基の死去まで見通していたとは思えませんが、ライバルである田安家を弱体化させようと考えていたのだと思います。その目論見は当たり、将軍家世子である家基が没した後、治済の長男豊千代が10代将軍(徳川)家治の養子に収まり、やがて11代将軍・徳川家斉となりました」。
「その一方で、一橋家の相続は着々と進みました。治済の次男で一橋の世子であった治国は18歳で没しましたが、六男の斉敦が3代目となりました。他の兄弟は、三男が福岡黒田家に養子に行き、四男は夭折、五男斉匡は田安家を継いでいます。つまり、治済の子たちは徳川宗家、一橋家、田安家の3家を引き継ぐ大きな勢力となったのです」。
これだけでも驚くべき勢力拡大ですが、快進撃はさらに続きます。治済の孫の一人は越前家を継いで松平慶永(春嶽)になり、もう一人の孫は田安家を継いで田安慶頼に、さらにもう一人の孫は尾張家を継いで徳川斉朝となりました。治済の孫の代に至って、尾張家や越前家までも一橋の血筋に収めてしまったのです。
本書を読むと、将軍家であれ、御三家、御三卿であれ、諸大名家であれ、長期に亘り血筋を保っていくのがいかに大変なことであったかが、よく分かります。