『伊勢物語』で展開される恋のバリエーションを楽しもう・・・【情熱的読書人間のないしょ話(520)】
雨上がりには、雨上がりならではの風情があり、雨上がり特有の香りがあります。因みに、本日の歩数は10,051でした。
閑話休題、『恋する伊勢物語』(俵万智著、ちくま文庫)は、『伊勢物語』の単なる解説書ではありません。あちこちで、登場人物たちの考えや行動に対する著者・俵万智の異議申し立てが入るのですが、これが『伊勢物語』の味わいを深める調味料となっています。
著者は、高校の古典の教科書に載っている『伊勢物語』の断章は、当作品の特質である恋の色彩を感じさせないものばかりだと不満を述べています。「ここに描かれた、さまざまな恋のバリエーションを、楽しみたい。『恋の見本市』と名づけたいぐらい、『伊勢物語』にはいろんなパターンの恋がある」。
「身分違いの女(ひと)」の章は、「障害があるほど、恋は燃えやすい。・・・現代では、ピンときにくいが、古典の世界では『身分の違い』は、恋の障害の代表選手だった」と始まります。高貴な身分の女性を深く愛してしまった男がいて、女性の邸をたびたび訪れていたのです。ところが、その女性が天皇の妃となったため、一目会うことも不可能になってしまいます。「『伊勢物語』の本文では(在原)業平という名前は出てこない。出てはこないが、当時の読者なら、ははん、あのハナシね、というふうにピンときたことと思われる。相手の女性も、ちゃんと調べがついていて、清和天皇の妃となった藤原高子。有名なゴシップだったらしい」。
「大いなる誤解」の章では、都からやって来た貴公子と、田舎に住む娘の物語が扱われています。「第14段に描かれたこの恋は、娘のアタックから始まる。都の男に興味津々、その気持ちを隠さずに、また、変にコンプレックスを抱くこともなく、堂々と男に恋の歌を届ける。『好き』と思ったら一直線――この大らかさ、この大胆さ。私は拍手をしたい。都のお姫さまには、まず、いないタイプだろう」。「このストレートな剛速球に、戸惑いつつも男は心を動かされたらしい。そこで夜、女のもとを訪れた。古典を読んでいると、男女のことに関して、あまりに端的に書かれていて、『きゃっ』と思うことがしばしばある。たとえばこの場面では、地の文は一言『(男は)いきてねにけり』である。現代語に訳す時には、こういうところは頭を悩まされる。『行って寝た』では、なんだかミもフタもないような気がするし、かといって妙に婉曲なのも、かえっていやらしい。で、やや婉曲に『夜になって、女のところを訪ねていった』という具合になる」。
「3年目の悲劇」の章は、本当に悲劇的な話です。「人は、何の音沙汰もなくなってしまった恋人を、どれぐらい待ちつづけられるものだろうか。『都で宮仕えをしてくる。必ず帰ってくるから、待っていてくれ』。そう言って、第24段に登場する男は、別れを惜しみつつ、田舎を出て行った。女は、彼の言葉を信じて、しんぼうづよく待っていた」。3年が経とうとしているのに、彼からは何の頼りもありません。そんな中、新たな男が現れます。言い寄り口説き続ける男に、女は彼が出ていって丁度3年になるその日の夜まで待ってほしいと頼みます。「そして、とうとうその日がきてしまった。『この戸あけ給へ』。女はハッとする。ところが、戸口のところから聞こえてくる声は、新しい恋人ではなく、懐かしい男のものだったのである。第24段の本当の悲劇は、ここから始まる」のです。