榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

歌、恋、麻薬――最高のシャンソン歌手、エディット・ピアフの生涯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(535)】

【amazon 『愛の讃歌――エディット・ピアフの生きた時代』 カスタマーレビュー 2016年9月21日】 情熱的読書人間のないしょ話(535)

散策中に、トケイソウの花と実を見つけました。花の3つに分裂した雌蕊が時計の長針、短針、秒針のように見えます。因みに、本日の歩数は10,564でした。

img_2657

img_2658

img_2660

閑話休題、『愛の讃歌――エディット・ピアフの生きた時代』(加藤登紀子著、東京ニュース通信社)では、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフを敬愛する歌手・加藤登紀子が、ピアフの生涯を丹念に辿っています。

「(パリの)ベルビル通りに生まれ、ノルマンディの娼婦宿で育ち、モンマルトル界隈をホームグランドにしたピアフ」。

ピアフが20歳の時のことです。「絶賛を受けて少々のぼせ上がっていたピアフは、『このうるさいオッサン!』と心に思い、必死の抵抗もするのですが、彼(レイモン・アッソ)は一歩も引きません。1日何時間でも、歌えるようになるまで、シゴキにシゴいたのです。『俺の言う通りにすれば、君を3カ月でスターに出来る』と。言葉の発音の、どんなカケラも正確に響かせ、その意味を伝える。その上で、歌っている詞の物語を、今ここで生きること。この時、ピアフは初めて歌を、余興としてではなく、何かを強く訴えることのできる、深い表現芸術である事を教えられたのです。レイモンは、本を読むこと、正しく挨拶をすること、姿の美しさ、テーブルマナーまで、ピアフがこれまでの人生で身につけていなかった人間として大切なすべてを教えたのです。・・・レイモンは彼女を『エディット・ピアフ』と名付け、この名前での再デビューを計画します」。「エディット・ピアフが歌姫としての栄光を歩み始めたのは、不吉な戦争への足音がすぐそこにあった時代。人々が追い詰められ、社会はただただ混乱して行くばかり! その切迫感が人々にピアフの音楽を求めさせたのでしょう」。

ピアフは恋多き女というレヴェルを超えていて、生涯、次から次へと絶え間なく、さまざまな男性と恋に落ち、別れるということを繰り返しました。「1946年、突然サヨナラを言い渡された(イブ・)モンタン。『お互いにまだ愛し合っているうちに、勇気を持って別れる。それが私の恋の流儀なの』。モンタンとの恋を歌ったと言われるあの『バラ色の人生』を、ピアフがレコーディングしたのはモンタンと別れた後でした」。「数えきれない男たち、目の前で死んでいった男たち、遠い日の叫びも甘い囁きも、泣き声も、墓穴から蘇るように毎晩私を脅かす・・・」。「『私は、愛されたいという願望が病的と思えるほど激しいの。美人じゃないから、女としての魅力に欠けているから、誰かから愛されたくてたまらなかった』。『彼らが愛しているのはこの私ではない。彼らが惚れているのは私の名前なの。私の利用価値なのよ』。どこかに『愛されていない』という恐怖と孤独感を抱えていたピアフ」。だから、「彼女の愛には休息がなかった」のです。

「(47歳という若さで亡くなった)ピアフの全人生をたどって最後に私の中に残った印象は、ピアフが、飛び抜けて優れたプロデューサーであり、ディレクターであったという事実です」。

また、ピアフは自らの政治的信条に忠実な人でありました。「戦争中に決してナチスに迎合しなかった歌姫ピアフとしての、絶対の信頼を人々から得ていました」。

不倫関係にあった愛するマルセル・セルダンの死後、ピアフの代表作「愛の讃歌」が誕生しますが、ピアフは麻薬に溺れていきます。「それでも寂しさや、悔しさや、自分への責めなど、心の安らぎは得られるはずもなく、ピアフは結局、麻薬の虜になってしまいます」。「アルコール中毒、薬物中毒、肝機能不全、リウマチ、その半年後には膵臓炎で入院」。

これまで謎に包まれていたピアフの喜び、哀しみ、悩みが鮮やかに甦ってくる一冊です。