新潟、秋田、山形に恐ろしい死の虫が潜んでいた・・・【薬剤師のための読書論(19)】
『死の虫――ツツガムシ病との闘い』(小林照幸著、中央公論新社)を読み終わって、日本人もなかなかやるわいという気持ちにさせられた。
かつて、新潟、秋田、山形の夏は、多くの農民が40度近い高熱に苦しめられ、意識を混濁させながら死んでいく恐怖の季節であった。
「(虫に刺される→発疹→水疱→膿疱の後)かさぶたができ、黒褐色となると、その頃から、全身の倦怠感、食欲不振、頭痛に襲われる。これらの症状が出るまでは潜伏期なのである。そして、全身の関節や筋肉が猛烈に痛み、下痢、発熱が起こり、かさぶたの周囲のリンパ節をはじめ全身のリンパ節が腫れて痛む。ここからが本当の恐怖である。発熱は段階的に上昇し、全身に赤い発疹が見られるようになる。中でも、胸、腹、背中に多く見られ、ひどいものでは、発疹の部分が徐々に紫色に変化して内出血する場合もあり、『紫はしか』と呼ばれもした。高熱の状態に至れば、最悪の場合、3日ないしは4日ほどで意識朦朧の中で死ぬ。死への恐怖が募るのだろう、床に臥しつつ、錯乱状態を呈する場合もあった」。
危険を恐れず、苦労に苦労を重ね、ツツガムシ病の病原体、感染経路、病理的変化を突き止めるまでの、多くの日本人研究者たちの長年に亘る苦闘の歴史が丹念に辿られていく。
「当時の人たちは知る由もなかったが、ダニの一種であるツツガムシ、それも成虫ではなく幼虫がもたらす脅威であった」。
「ツツガムシ病の研究は、近代医学が日本に輸入された明治時代から幕を開ける。そして、1つの病気としての発見から病原体の特定まで、日本人の医学者によって行われた。あらゆる苦労を重ね、危険にも直面しつつ、貴い犠牲の上に打ち立てられた世界の医学史上における金字塔である」。
しかし、治療法についてはアメリカの協力を必要とした。「ツツガムシ病は発病後でも、クロラムフェニコール、テトラサイクリンを服用すれば治る――新潟、秋田、山形の各県の人々を長い間、苦しめてきた、この病気の恐ろしさが過去のものとなる日が遂にやって来たのである」。「ツツガムシ病の場合、第一選択薬としてテトラサイクリン系を用い、入手が困難であれば、クロラムフェニコールを用いるべし、と周知されてゆく」。
「抗生物質による治療が戦後、確立されたが、現代においても、ツツガムシ病の脅威はなくなったわけではない。油断すれば、落命する危険性は十二分にある」。
現在は、ツツガムシ病はこう説明されている。「卵から孵化したツツガムシの幼虫は地表や草の上で動物を待ち構える。人間や野ネズミなどの皮膚にとりついて組織液を吸い(吸着)、満腹幼虫となったのち、地中で休眠に入り、若虫となる。休眠・脱皮をすることで、第1若虫→第2若虫→第3若虫という段階を経て、成虫となる。若虫と成虫は地中で生活し、小昆虫類などの土壌動物やそれらの卵などを餌としている。ツツガムシ病の病原体であるリケッチアを持っている幼虫が人間に吸着した場合のみ、感染・発病の可能性が生じる。幼虫が動物の組織液を吸うのは一生に一度だけである」。
ただし、どのようにしてツツガムシがリケッチアという病原体を保有するようになったのかという根源的な問題は、現在も解明されていない。