苛烈な人生を送ってきた柳美里の半生の記・・・【情熱的読書人間のないしょ話(650)】
運慶の四男・康勝作の「空也上人立像」は、諸国を巡って布教に努めた空也の念仏を唱える口から6体の阿弥陀仏が現われたという伝承に基づいて制作されたと伝わっています。
閑話休題、『人生にはやらなくていいことがある』(柳美里著、KKベストセラーズ・ベスト新書)は、柳美里(ゆう・みり)の半生の記です。
苛烈な人生を送ってきた著者が本音で語っているので、私たちの心に突き刺さる言葉があります。
「対話とは、どんなにお互いの主張が違っていても、自らの立脚点や考え方から踏み出し、相手に向かっていくこと、お互いの共通平面を探ることです」。「わたしが話をする中で相手の美質を探り出すことさえできれば、対話は成立するのです。それがどんなに些細な美質であっても――」。在日韓国人として差別主義者の標的になってきた著者の言葉だけに重みがあります。
「最近よく、生まれ変わったらイモムシになりたいと思います。イモムシは、瞬間を生きるしかない生き物だからです。彼らは、明日明後日のことに思いを巡らせ、未来に不安を抱いたりすることはありません。どんな状況下でも『生きる』方角にだけ顔を向け、ただ一瞬の、『今』を生きている。若い頃のわたしは、刹那的に生きることで、ギリギリまで自分を尖らせ、その先端で生の感覚をつかもうとしていた。けれども、日々の何気ない暮らしの中にこそ、掛け替えのない『今』は在る。どんなに不幸な境遇の中にも、どんなに絶望的な状況下にも、キラキラときらめく波間の光のような幸せが射し込む瞬間はある。その瞬間を、イモムシのように感じながら、わたしは『今』を生きていきたい」。想像力が人類を進化させてきたことを考えると、人が自らの来るべき死を考えるのは已むを得ないことで、不可避な死を踏まえた上で自分なりに覚悟を決めるしかないというのが、私の考え方です。
「絶望を抜ける小道は『生活』にある、ということです。・・・とにかく、日常生活を丁寧に繰り返す。繰り返すことでリズムを生み出す。書くことをそのリズムの一部に組み込む」。著者が実践していることだけに、説得力があります。
敢えて、原発事故後に福島県南相馬市に移り住んだ著者の原発に対する怒りは激しいものがあります。「その掛け替えのない暮らしと、人と人との繋がりを破壊したのが、経済原則の権化のような原子力発電所の事故です。わたしは、原発事故によるリスクと、原発による経済的利益を天秤に掛けるのは、日本人が古来から大切にしていた『義』に反すると思っています。『義』とは、人の行いが道徳や倫理にかなっていること、という意味です。原子力政策によって問われているのは、損得ではなく『義』です。日本で暮らすわたしたち一人ひとりの『生き方』が問われているのです」。著者が原発問題に「義」を持ち出してきたのには驚きましたが、本質的な問いかけだと考えます。
「成功した時、あるいは何かに困って助けられた時に、『自分』は『他者』によって支えられているのだということを実感する人は多いでしょう。でも、実は、『自分』は『他者』で出来ているのです」。ここまで突き詰めて考えられるのは、いかにも著者らしいなと感じました。
「『余生』や『老後』という言葉にも違和感がある。ここまでが『生』『命』で、ここからは『余り』という考え方には賛同できないし、定年退職をした途端に老いて、『老後』に入るというのもおかしい。人間は、死ぬまで生きているのです」。著者の「あの世」の考え方には賛同できませんが、この「余生」「老後」の捉え方には大賛成です。
柳の作品は大分昔に読んだだけですが、本書を読み終わって、柳という人間に対する興味が湧いてきました。