長女の目に映った井上ひさしの姿がまざまざと浮かび上がってくる・・・【情熱的読書人間のないしょ話(669)】
読み聞かせヴォランティアで、「かいじゅうたちのいるところ」と「わたしのワンピース」を読みました。先日の読み聞かせ講習で学んだことを、実地の場で生かすよう心がけました。図書館を出ると、雲行きが怪しくなっているではありませんか。因みに、本日の歩数は10,265でした。
閑話休題、井上ひさしは私の好きな作家です。その豊かな発想から生み出された作品たち、磨きに磨き込まれた文章表現だけでなく、権力に媚びない反骨精神が堪らないのです。
ひさしの長女・井上都が綴る『ごはんの時間――井上ひさしがいた風景』(井上都著、新潮社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)では、滅多に見ることのできないひさしの姿を垣間見ることができます。
「クラブハウスサンドイッチ」では、こんなふうに描かれています。「目の前で父が怒っていた。シトシト梅雨の雨が降る午後の小さな喫茶店。そのとき父は『父と暮せば』という原稿をテーマにした二人芝居の執筆にかかろうとしていた。・・・父と喫茶店で向かい合う数時間前のことだった。劇団の事務所にかかってきた電話をとると静かな声で『原爆を芝居にすると伺いましたが、被爆者をどう扱うおつもりなんでしょうか?』と問われた。自分は被曝体験を持つ者だがと重ねてその人は言った。『被曝した人にとっては原爆ってやはり簡単にふれられたくないことなんだよね』と、こんな電話があったということをただ父に伝えておきたくて私はそう言った。父の顔色が変わるのがわかった。『おまえは間違っている。おまえのように、被曝していないからわからないとか、そういう考えが一番よくない。原爆は人類共通の体験なんだ。おまえこそ簡単にものを言うな』。父のコーヒーは冷め、私が頼んだアメリカンクラブハウスサンドイッチは干からびつつあった。雨だれの音といつまでもコーヒーをかきまぜる父のスプーンの音がいまもよみがえる」。
「カップ麺」では、このようです。「高校の3年間、私はアガサ・クリスティーに夢中だった。・・・父は喜んでくれ、頼みもしないのにハヤカワ文庫のアガサ・クリスティーを全巻取り揃えてくれた。そしてそのうち『おう、今日は徹夜するぞ』と教えてくれるようになった。父が徹夜宣言をした夜には、父の書斎の入り口に毛布を持って座り込み私も徹夜態勢だ。・・・夜中の3時、原稿用紙に向かっていた父が湯を沸かし始める。窓の桟を指して言う。『見て。すごいだろ』。そこにはカップ麺の数々がきれいに並べられているのだ。『これなんかいいと思うよ』と一つを私に刺し出して、『食う?』。おばあさんになれたら、カップ麺を夜食に、徹夜でクリスティーを読む。それが私の夢である」。
「シイタケと裏庭」のひさしは、こんなふうです。「シイタケを見ていると、中学に上がった年から22才まで住んだ家の裏庭を思い出す。・・・その裏庭には、父の書き損じた原稿用紙を燃やすための小ぶりな焼却炉もあった。・・・記憶の中で、その時間はいつも秋なのだ。台所からサンマを焼く匂い、食器の触れ合う音が聞こえる。書斎に適した部屋を求めて家中を転々と移動していた父が、ひげを剃りながら窓から顔を出し『おう』と言う。『もうすぐごはんだよ』と父に手を振って応え、原木にへばりつくように生えていた小さな小さなシイタケをなんとも満たされた気持ちで私は愛でていた。あのとき夢見、思い描いていた未来は両手からこぼれ落ちてしまったが、シイタケ好きは変わりなく私の手中に残った」。
著者のエッセイがなかなか読ませるのは、父のDNAを受け継いでいるせいだろうかと思うのです。