戦前唯一の外国人による日本農村研究書に書かれていたこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(843)】
散策中、黄色い花を咲かせているアメリカノウゼンカズラを見つけました。ハゴロモジャスミンの白い花が芳香を放っています。サルビアが赤い花を咲かせています。橙色のマリーゴールド、黄色のマリーゴールドが咲き競っています。因みに、本日の歩数は10,398でした。
閑話休題、『忘れられた人類学者(ジャパノロジスト)――エンブリー夫妻が観た<日本の村>』(田中一彦著、忘羊社)は、80年前に敢行された、社会人類学者の若き米国人夫妻による日本農村研究書を辿る報告書です。
「『素敵な所ね』。『そうだね。とても面白そうだ。僕たちの調査にふさわしい村かもしれない』。熊本県南部の球磨盆地にある『熊本県で一番小さな村』須恵村(2003年の合併で現在あさぎり町須恵)。自転車を駆ってやって来たのは、少し疲れた様子の若いアメリカ人夫妻だ。1935(昭和10)年9月下旬、今にも秋雨が落ちてきそうな夕曇りの空とは裏腹に、二人の表情は晴れ晴れとしていた」。
シカゴ大学で社会人類学を学ぶ27歳のジョン・エンブリーと、26歳の妻エラは、シカゴ大学から日本農村調査のために派遣され、全国各地の村を訪ね回った末に、二人が気に入った須恵村で調査を開始したのです。
この調査に基づいて書かれたジョンの『日本の村 須恵』と、エラの『須恵村の女たち』は、戦前では外国人による唯一の人類学的な日本研究書として、世界中から注目を浴びてきました。日本でも、今西錦司、宮本常一、梅棹忠夫、鶴見俊輔らから高く評価されています。
エンブリー夫妻は、須恵村の「部落生活の特色は協同活動と贈り物のやりとりである」と捉えています。
いずれの章も興味深いのですが、私にとって衝撃的だったのは、「奔放な女たち」と「女の一生」の章です。
「ほとんどの宴会で、人びとは踊り、唄い、食べ、酒を大量に飲み、そしてほとんど例外なく、かなりの性的な冗談や戯れがみられた。・・・始めはいかに形式ばったものであっても、みんなが酔っぱらって、踊りまくり、下品な歌をうたいまくらない宴会は、ほとんどない」、「(入浴時)手拭があったにもかかわらず、身体をさらすことを恥ずかしがる風潮はほとんどなかった。彼女たちは互いに身体を見合い、おへそを比べあい、性器や陰毛の生え方の形を見せ合ったりさえしていた」と、エラが記しています。
「男と同じように女も道端で用を足し、ほとんどの農家では戸のない便所を使用していた」という件(くだり)を読んで、私自身の49年前の経験を思い出してしまいました。当時、私は製薬会社の社員として熊本県全体の診療所を担当していたのですが、菊池郡のある診療所を訪問した際、診療樗の外に設えられた便所――囲いがなく、簡単な屋根とセメントで作られた溝だけの――で、20代と思われる地元の女性が裾を捲って立ったまま小用を足すところを目撃してしまったのです。
ジョンが、「(夜這いを)娘は拒絶することも受け入れることも自分の選択のままであった」と、エラが、「(かつて)花嫁の純潔は重要なこととはみなされていなかった」と綴っています。
また、エラが村の女に女性も不貞を働くのか尋ねたところ、「ええ、しますばい。ここの女たちはしばしば、夫とは別の男ば持っとる。女たちは夫のおらんときに、その男と会うとです」という答えが返ってきたと述べています。
須恵村の女たちについて、エラはこう総括しています。「彼女たちは、煙草、酒、性に楽しみを見いだしていた。おそらく、いたるところの百姓の女たちと同様に、彼女たちのユーモアは土くさく、性的な関係についての話は率直で、隠しだてのないものだった。たしかに、少女たちははにかみ屋だったが、女の子は男の子といちゃついていたし、男の子に追いまわされ、ときには望んでいない妊娠という、高い代償を払った」。「結婚した女性はときどき不貞を働いたが、それは、そのような行為をするのは通常、夫だけだという、この時代の日本において一般に承認された知識ときわだった対照をなすものだった。さらに注目すべきことは、不貞の関係を知った夫によって、妻が離婚されるとは限らないということである。また、われわれがすでに知っているように、寡婦たちは、恋をあさる夫たちと未婚の若い男たちにとって、いいかもとみなされ、またそうであることが証明された」。
日本出立前夜、ジョンはこのように真情を吐露しています。「須恵の暮らしは厳しい。朝は早く、激しい肉体労働が伴う。しかし、焼酎があり、たくさんの焼酎を飲める祭りでいっぱいの陰暦の暦がある。暗い夜々があり、魅力的な娘たちがいる。月光が、美しい山々があり、そして年を取っても話ができる古い友達がいる。・・・私は、球磨郡の魅力を理想的なものと考えてもいいと思った」。現在の日本と比べて羨ましい気分にさせられるのは私だけでしょうか。