榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

「権力の監視役」から「権力の番人」に成り下がった司法とジャーナリズム・・・【情熱的読書人間のないしょ話(889)】

【amazon 『裁判所の正体』 カスタマーレビュー 2017年9月23日】 情熱的読書人間のないしょ話(889)

散策中に、薄紫色の花を付けたハナトラノオ(カクトラノオ)を見かけました。アフリカハマユウ(インドハマユウ)が桃色の花を咲かせています。シーサーを見ると、10年ほど前に、沖縄のサンゴ礁「石西礁湖」で潜り、目の真ん前で泳ぐ熱帯魚たちと戯れたことを懐かしく思い出します。その後、白化現象が進行し、サンゴ礁の70%が死滅したというニュースを聞き、胸を痛めています。因みに、本日の歩数は11,139でした。

閑話休題、『裁判所の正体――法服を着た役人たち』(瀬木比呂志・清水潔著、新潮社)は、本来の役割を果たさずに、「権力の監視役」から「権力の番人」に成り下がった日本の司法とジャーナリズムに活を入れています。

絶望の裁判所』(瀬木比呂志著、講談社現代新書)、『ニッポンの裁判』(瀬木比呂志著、講談社現代新書)の瀬木比呂志と、『殺人犯はそこにいる――隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(清水潔著、新潮文庫)の清水潔という気鋭の二人の対談を通して、現在の司法とジャーナリズムの実態・内情が白日の下に曝されています。

例えば、「裁判官は何を目指しているのか」というテーマについては、このように論じられています。「●瀬木=本来、裁判官というのは、自分の考えをきちんともっていて、それに従って裁判をすべきものです。権力にも迎合しないし、世論にも安易には迎合しないというのが、あるべき姿なのです。ところが、日本の裁判官は、まず権力、それから時の世論ということになるので、たとえば、日本という国がどんどん悪くなっていくような場合、日本の裁判官には、そういうものに対する歯止めとなる力がきわめて乏しく、それは、ごくごく一部の裁判官にしか期待できない、ということになるのです。そこは、本当に、日本のキャリアシステムの大きな問題です」。

「個人の問題か制度の問題か」については、こうです。「●瀬木=僕の本について、『でも、いい裁判官もいる』という意見は、弁護士からも割合出るんです。けれども、僕だって、そんなことは百も承知。そんなことをいえば、ナチス時代のドイツにだって、スターリン時代のソ連にだって、太平洋戦争時代の日本にだって、いい人は絶対いましたよ。当然のことです。でも、彼らは、みずからの良心に従って行動することができなかった。なぜか。そこには構造的な問題があったし、彼らの数も限られていたからです。・・・●清水=先ほど良心的な裁判官は上に行けないという話がありましたが、このあたりも警察組織に似ている感じがします。市民のためにがんばるおまわりさんは出世できないとか。裁判所も同じ境遇なのでしょうか。●瀬木=今のキャリアシステムの下では、多数派の裁判官の精神的な荒廃、能力的な低下が、徐々に進行しているということです」。

国策捜査について、注目すべきことが語られています。「●瀬木=日本では、やはり、推定有罪的な警察目線の報道が多いですよ。『それでもボクはやってない』(周防正行監督)という映画を見て、僕が、『ああ、そうだよね』と思ったのは、最初からもう犯人扱いなんです。日本では代用監獄でも最初から犯人扱いで、被疑者といいながら、ほとんど犯人みたいな処遇を受けているということを、あの映画は、きちんと映していましたね。●清水=そこがやはり99.9%有罪という前提のもとに進んでいくことの弊害ですね。●瀬木=かつ、発表報道もそれを助長している。それこそ、国策捜査なんかだと、もう最初から決めてかかっていて、最後にそれが間違っていたということになっても、『いや、それでもやはり問題があったんじゃないか』と、まだやったりする。『政治家としては問題だ』とか、論理をすり替えてしまうんですよ。小沢一郎氏が無罪になった陸山会事件でも、もう事件としてはダメだったということがわかってからも、新聞が、『いやいや、やはりあの人は問題があった。政治家として問題だ』と。政治家として問題だということと、その事実について有罪かどうかとは全く違うことでしょう。信じられない報道です」。

日本の裁判所の支配統制の実態が明かされています。「日本の裁判所の支配統制システムの一番すごいところは、決してみえないということです。透明な鉄のカーテンなんです。さらによくできているのは、中にいる人たちも、だんだんそれが当たり前になってしまう。実際には、最高裁や事務総局が考えていることと違うことをする人にとっては、その鉄がたちまち実体化して身体にぶつかってくるんですけど、その枠内で動いていてそれが居心地よい人たちにとっては、そういうものは『ない』わけです。・・・かつ、記者たちも、多くは、その壁を障害とも思わず、当然の前提としてとらえていますし、その中で裁判所の発表に基づいて報道をしている限りは協力してくれますから、それに乗ってしまっている人も多い。いわば、『共存共栄』ということです。法的リテラシーが乏しくて、裁判所の広報に解説をしてもらわないと記事が書けない記者も結構いますしね」。

「ジャーナリズムと司法の劣化は相似形」では、辛辣な言葉が飛び交います。「●清水=(日本のジャーナリズムは)公平性、公正性といいながら実は権力とか、行政とか、そういうところから一方的に出てくる情報を真実のごとく丸呑みし、それをそのまま投げるということが続いてしまっています。・・・●瀬木=結局、日本では、本来は市民・国民の代理人として権力を監視すべき裁判所も、ジャーナリズム、ことにマスメディアも、どっちも権力の一部になってしまっている傾向が強くないかということですかね。大きなところほど、『権力チェック機構』じゃなくて『権力補完機構』敵になってしまっている。●清水=そうですね。究極のことを言ってしまうと、やはり権力についているほうが楽なんです。そして安全です。そこから対権力の構造の中に入るというのは、ものすごく怖いし、危険です。ですからサラリーマン化している記者たちにどっちを選ぶんだと聞いても、考えるまでもないですよね。・・・●瀬木=国策捜査なんかでも、見ていると、常に『うまくリークをして書いてもらって』という、その積み重ねの中で進んでいきますよね。記者もある意味で検察の共犯者」。

「原発訴訟と裁判官協議会」の闇の関係が告発されています。「●瀬木=(裁判官)協議会での見解や判決を総合するとどういうことかといいますと、ごく簡単にいえば、基本設計という一番基本的な設計についてだけ審査すればいいということ、そして、行政庁の専門技術的裁量を尊重して、それに合理性があるか否かという観点からのみ審査を行えば足りるということです。つまり、被告側が原子炉施設の基本設計の安全性について一応の立証を行えば、稀有な事後の可能性などはあまり問題にしなくてよいと、そういう判断枠組みになります。で、福島第一原発事故前のほとんどの下級審と、最高裁とが、そういう判決をしてきました。・・・●清水=なんで原発の再稼働が許されるんだろうかという疑問は、多くの人がもっていると思うんですよね。あんな事故があったのに、それを再稼働しようとしている。自民党や政府の方針というのはともかく、裁判所までそれを認めている。●瀬木=一時はそうでもないという方向もあったけど、裁判所も、だんだんまた前のような判断枠組みに戻ってきている。つまり、現時点の状況に引き直せば、『新規制基準さえ満たしていればOK』という枠組みですね」。裁判官協議会というのは、最高裁の意向に沿った判決を下すよう、裁判官たちを統制するためのツールです。

「憲法訴訟について」では、何とも情けない実態が抉り出されています。「●瀬木=最高裁は、いわば日本国憲法で無限定にされている違憲立法審査権という重要な権能を、自分で縛ってしまったわけです。自分で自分の手を強く縛っておいて、『あっ、こんなに強く縛られているからできないよ』みたいなことをいっているのが、日本の最高裁(笑)。●清水=田舎芝居のようです」。