『東海道中膝栗毛』の魅力を再認識させてくれる一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(967)】
東京・中央の築地市場で数の子などを求めました。ここで買い物をするのも、これが最後となりそうです。市場の上空をたくさんのトビとユリカモメが飛び交っています。築地場外市場も賑わっています。築地市場近くの波除(なみよけ)稲荷神社には大きな獅子たちが鎮座しています。因みに、本日の歩数は14,243でした。
閑話休題、『中西進と読む「東海道中膝栗毛」』(中西進著、ウェッジ)を読んでいる間、のんびり旅気分を味わうことができました。
「旅の道づれといえば、いまでも弥次・北のふたりである。今から2百年ほど前、享和2(1802)年に出版された十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』が大当りをとった。その主人公がこのふたりだからだ。弥次はフルネーム弥次郎兵衛。駿河出身の商人だが、おっちょこちょいで遊び好き。旅役者に入れあげて落籍せ、男色にふけって親の身代をつぶし、仕方なく江戸に出て来た。今や、神田八丁堀に住むなまけ者である。・・・しかし無類に、気持がいい。北こと北八は、弥次が落籍せた旅役者である。弥次の食客として養われているが、この方はなかなか才覚があって、けっこう商売上手である。・・・ふたりはつまらない身の上にあきて、いっそ運なおしに東海道の旅に出ようということになる。借金をしての、お伊勢参りである」。
「江戸の町人は、したたかに生長していた。身分制度にしばられることも陰気くさいことだが、女房にしばられるのも陰気くさがったのが弥次・北である。市民生活の建前や日常の退屈さ。それが彼らをユーモラスな旅にさそい出したのである」。
「弥次郎兵衛は北八をともない、いよいよ東海道の旅に出発する。まずは伊勢神宮にお参りをしたのち、大和をまわって京都に出、大坂で遊ぼうという算段である」。
箱根の街道でのこと。「次に来たのは江戸入りのお女中衆。すると北が白い手拭をかぶり出す。何でも『白い手拭をかぶると粋な男に見える』と聞いていたらしい。ところが通りすぎる女たち、見てはクスクス笑っていく。北は得意で『おいらの顔を見てうれしそうに笑っていった』というが、とんでもない。弥次『笑ったはずだ。白い布から真田紐が下がっていらあ』。昨日風呂に入った時、越中フンドシを袂に入れたが、それを手拭と間違えて頭にかぶった次第である」。
三島の夜のこと。「風呂に入り食事もすみ、酒も飲んで、弥次と北は女をよぶ。当時は安直な遊び女に『飯盛り』と呼ばれる女がいた。それである。・・・女ともども寝に入った弥次と北。・・・スッポンにかまれて、折角女を抱いて寝ようとした夜を台なしにされたばかりか、路銀まで盗まれてしまい、さんざんである。・・・弥次がめっぽう女に弱い、その小市民共通の弱点が、いつもからかわれることになる。しかし作者の主人公たちへの目は、常にあたたかい。弱点だらけの小市民を、むしろ自然に振舞う者として見守ろうとさえしている。それも、この作品がたくさんの読者に支持される理由だろう」。
大井川の川越しでは、弥次が侍の振りをして川越しの値段を値切ろうとします。「こんなにすぐニセ侍を思いつくほどに、武士階級も庶民にしたしいものだった。ニセ侍はよく江戸時代の書物に登場する。バレない場合もある。江戸時代の身分制度が、そんな自由さをもっていたことも、膝栗毛のような、生命力旺盛な庶民文学が誕生する母体なのである。・・・一枚一枚、失敗ばなしの紙芝居を見せるためには、道中記はうってつけの舞台だった」。
「主人公は底抜けに明るくてどんな時も軽いノリで困難を流し去ってしまう。一つ一つの小咄のおちに、必ずといっていいくらいに狂歌が用意されていて、悲劇をうまく掬い取ってしまう。これが全体の仕組みのコツだ。作者は端から、悲劇など書こうとはしていないのである。・・・この道中、どこにも極悪人はいない。どの人物もどこか可愛くて憎めない。そんな愛情の中で操られている登場人物だから、喜劇しか演じられない。わたし達が『東海道中膝栗毛』の読者となる時の楽しさは、日常を離れた旅で気ままに生きる姿への、人間本来の共感なのだろう。よきかな、人間」。
人間、誰でも、自分のこととなったら、悲劇より喜劇のほうがいいですよね。