藤原定家と、『平家物語』の作者・藤原行長との関係・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1022)】
散策中に、メジロをじっくりと観察することができました。因みに、本日の歩数は10,183でした。
閑話休題、『藤原定家の時代――中世文化の空間』(五味文彦著、岩波新書。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)には、藤原定家と、『平家物語』の作者・藤原行長との関係が記されています。
「(『徒然草』226段の『平家物語』の作者は藤原行長だという)説話のいうところを疑う見解もあるが、行長の姿を追って行くと(定家の日記)『明月記』にその姿がよく見えている。例えば、建仁2(1202)年8月23日条は、ある人物が作文の会に出席したことをとらえて、定家が『漢詩も作れないのに』と非難したものであるが、そこに詩の代作者として『前下野守行長』の名が見えている。この人物こそ信濃前司行長その人と見てよい。漢詩文に達者であること、行長という名がその根拠であるが、元久2(1205)年の漢詩と和歌を対抗させて遊ぶ詩歌合せに漢詩の方で行長の名が見えている」。
「『明月記』元久元(1204)年8月18日条からは、行長が八条院の石清水八幡御幸を奉行しており、これに定家も供奉していたことがわかる。ここに八条院を通じて定家と行長の交渉のあったことを知りうる。したがって治承の内乱に対する視角が『明月記』と『平家物語』とで共通するのも頷けよう。八条院という場の共通性が認められるのである。そう言えば定家も『平家物語』に登場している。都落ちする薩摩守平忠度が(定家の父)俊成に『さざなみや』の和歌を託した有名な話に続いて、左馬頭平行盛がやはり歌を定家に託して都落ちしたという話である。俊成・定家は明らかに行長とも親交があったのである」。
「『徒然草』の説話は大体において当時の史料に合致しており、『平家物語』が藤原行長の作品とみることは許されよう。また『平家物語』の作者と定家との接点も認められるであろう」。
現代風に言えば、定家と行長は、八条院に勤務する同僚同士という関係にあったことが明らかにされているのです。