室町幕府の将軍は、担がれることに特化した非実力主義型リーダーだった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1050)】
私は、「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」の日々ですので、散策に出られぬ雨の日は、その分、読書が捗ります。
閑話休題、『足利将軍と室町幕府――時代が求めたリーダー像』(石原比伊呂著、戎光祥出版)は、室町幕府の歴代将軍を論じた、読み応えのある一冊です。
「初代将軍足利尊氏の弟で、一時期幕府政治の責任者にもなっていた足利直義は、公家社会や北朝天皇家と良好な関係にあったといえるだろう。逆に、『太平記』で、北朝天皇家の人物が直接対面していると思われる場面は1箇所しか認められないことから、兄で将軍の尊氏は、北朝天皇家と密に交流するような間柄を形成しなかったものと思われる。ゆえに、尊氏期の足利将軍家と北朝天皇家の関係を考えるためには、直義を中心に据えて、その公家社会における行動を考えてみる必要がある」。
「室町時代の将軍と天皇家の関係を考えるうえで、(3代将軍・足利)義満は外せない人物である。・・・(作家の)井沢(元彦)氏が論じた、『義満は天皇になろうとしていた』という説は、何も井沢氏の独創ではない。・・・それは今谷明氏による『王権簒奪計画説』によるもの・・・」。
しかし、「王権簒奪計画説はすべて状況証拠だけで立論されているところに特徴がある。・・・今谷氏が状況証拠としてあげた義満の行動は、むしろ直義からの延長線上で理解したほうがよいように思う。義満が朝廷や天皇家に積極的に関与したのは、直義が公家社会秩序の一員として行動していたことを前提としているのではなかろうか。・・・義満期の公武関係像に対するイメージは、ここ10年ほどで、180度旋回したといって過言でない。・・・総じて義満の挙動とは、『幕府による朝廷に対する支配』ではなく、『後小松天皇から朝廷政務の指揮を委任されることによる公家としての朝廷支配』であったと位置付ける。・・・全体を俯瞰した場合、義満の政治行動は北朝天皇家の存続を保障する作用をもたらしていたのである」。この「義満=天皇になろうとした将軍」説の否定論は説得力があり、注目に値します。
「(4代将軍・足利)義持期への低評価についても、近年、抜本的に見直しが進んでいる。義持を再評価する諸研究については、ある一つの共通性がある。それは、義持のことを『義満のありかたに取捨選択を加えた将軍』として位置付けている点である。・・・それまでの漠然と『摂関家に類する』とされていた足利将軍家の家格を、厳密に足利将軍家を『当主が現任摂関に相当する家格』へと深化させたとはいえまいか。・・・義持による諸営為とは、北朝権威の維持向上という、直義から義満に引き継がれた政策基調と実質的にはなんら変わるところがなかったといえる。義持の天皇家に対する行動の基調は、北朝天皇家(後小松『王家』)を支えて権威化することにあり、それは直義にはじまり、義満に継承された方針の延長上に位置付けられるものであったことが理解されるだろう」。
「(8代将軍・足利)義教が義満の先例に準えながらも、実態としては義持の行動を継承していたこと、それは『王家』の執事として北朝天皇家を支えるというものであった。足利将軍家と北朝天皇家の蜜月関係は、直義の時代より一貫していた。その蜜月関係とは、『将軍が天皇を支えるという構造』と言い換えられる。足利将軍家は幕府草創以来、ずっと北朝天皇家を支えていたのである」。すなわち、足利将軍家を下、北朝天皇家を上とする直結した上下関係を構築することに成功したのです。
なぜ、これほど力を込めて、足利将軍家は北朝天皇家を支え続けたのでしょうか。「足利将軍家の権威とは、天皇家権威により保障されるものであった。そして、天皇家権威を利用する以上、足利将軍家は天皇家を護持する必要性があった。本所領(寺社や公家などの非武家=旧勢力の所領)保護とは、その具体的な発露である。一方で重要なのは、それによってもたらされるのが、『武家社会における超越性を確保する』という足利将軍家固有の利益であり、各守護の利益とは直接的には無関係どころか、各守護の直接的利益が本所領侵犯などを通じて領国支配を深化させることにあった以上、むしろ不利益以外のなにものでもなかったことである」。
その背景が、こう説明されています。「そもそも足利将軍家は源氏嫡流ではなかった。ゆえに、新しい政権の長たることも自明ではなかった。そこで当初は、源氏嫡流工作を繰り返すとともに、『東国政権の長の後継者』として自己を位置付けることによって、超越性を確保しようとした。しかし、このやり方には致命的な欠陥があった。それは、室町幕府の拠点として京都が選ばれたことである。そもそも、室町幕府が東国政権ではなくなったのである。いくら『東国政権の長の後継者』として自己演出したところで、肝心の新政権が京都に所在しているのだから、その長としての地位を正当化する作用は微弱なものとならざるをえない。足利将軍家は、新たな将軍権威保障装置を確立する必要性に迫られることとなった。しかも、(2代将軍・足利)義詮期の武家政権においては、南朝との争いにほぼ決着がついたことにより、幕府内部での主導権争いが激化しており、各勢力が足利家正嫡以外の存在を将軍候補として担ぎ出す危険性が渦巻いていた。そのようななかで、幼少の後継者義満を残して先立つこととなった義詮には、後継者たる義満の絶対性を確保するために、抜本的な正当化作業が求められた。それこそが、既存の権威たる天皇権威の活用だったのである。義詮は、足利将軍家(室町幕府将軍)を武士の中で唯一天皇と直結しうる存在として位置付けることによって、その超越性を確保するという方法論を選択し、そのための前提として、有力守護大名などほかの武士を天皇から切り離す作業を推進した。これらの施策により、武家政権の首班(足利将軍家家長)とは、守護の擁立でなく、『勅答』により保障される存在となったのである」。
いよいよ、ここからが本書の最重要箇所です。「そもそも、室町幕府なる新たな武家政権は、なぜ必要とされたのであろうか。南北朝内乱の過程で有力守護へと生長したのは、足利一門(細川・畠山・斯波)、赤松・佐々木・山名・土岐・大内といった面々であった。これらの氏族は、一部を除いて鎌倉幕府体制下では有力御家人ではなかった家柄である。倒幕戦争の過程で旧北条氏権益を接収することで、雪だるま式に強大化した存在といえる。鎌倉時代においては、日の目を浴びなかった武士たちが社会の主流派になるためには、一致団結して旧勢力を打ち破る必要があった。そして、一致団結するためには旗印が必要であり、その旗印として担がれた存在こそ、足利将軍家だったのである」。何と明快な説明ではありませんか。
「室町幕府将軍(足利将軍家家長)は実体なき最高権力であり、言い方を換えれば、担がれることに特化したリーダーであった。『実力もないのに偉い』というのは、近代的価値観的からすれば、なかなか理解されないだろうし、『武士道』の『あるべき姿』から外れる。ゆえに、足利将軍家には否定的評価ばかりが集まるのである。・・・日本人(の無意識)にとって最も落ち着くリーダー像は、『まぁまぁ、言いたいことはわかるけど・・・』というフレーズを巧みに使いこなす、調整型リーダーなのであるまいか。とするならば、足利将軍家的なあり方というのは、日本社会において長年親しまれている『非実力主義型リーダー像』そのもののように思われてくる」。著者が一番言いたかったことは、これなのです。
鎌倉幕府、江戸幕府に比して、あやふやな私の室町幕府についての知識が、本書のおかげで各段に強化されました。