千利休の高弟の戦国武将15人の生涯と茶の湯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1105)】
ベニバナトチノキが赤桃色の花を咲かせています。総苞が白色のヤマボウシ、総苞が桃色のベニバナヤマボウシの花が咲くのも間もなくでしょう。ソメイヨシノ、オオシマザクラ、ウスガサネオオシマが赤い実を付けています。エニシダが黄色い花を、ホオベニエニシダが黄色に赤い斑が入った花をたくさん付けています。キンセンカも頑張っています。因みに、本日の歩数は14,649でした。
閑話休題、『利休と戦国武将――十五人の「利休七哲」』(加来耕三著、淡交社)では、千利休の高弟の戦国武将15人が取り上げられています。「利休七哲」としながら15人が対象となっているのは、利休没後、大分経ってから、いろいろな人たちがそれぞれ7人を選んだため、異同が生じているからです。
「彼ら(武将茶人)には、厳しい日常生活が存在していた。彼らにとって茶の湯は人生の一部であり、彼らには『家』の存続がつねに念頭にあり、そこから生じる日常の苦労や煩わしさからのがれるために、非日常的な時間、空間として、茶の湯を必要としていたのである」。「ぎりぎりの日常との接点――主客間が接するほどの(狭い)空間――から、かえって無限の広がり、日々の煩わしさからの解放、自由を得ることができるというのが、利休の主張であったように思われる」。
誰もが「七哲」の筆頭に挙げる蒲生氏郷。「氏郷は茶の湯の中に、静の間に動を含み、弱きがうちに強きがあり、乏しきうちに豊かさを味わい、足らざるうちに満足を得るといった、悦びを汲みとったように思われる」。
細川藤孝(幽斎)の息子・細川忠興(三斎)。「忠興と玉(明智光秀の娘。伽羅奢<ガラシャ>)の夫婦仲については、諸説があるものの、忠興が玉をこの頃、熱愛していたことは間違いあるまい。のちにキリシタンたちが、『天性の国色、容貌の美麗比倫なく、精神活発、穎敏、果決、心情高尚にして才智卓越せり』と『日本西教史』の中で絶賛したように、玉はどこまでも美しく、あわせて才媛でもあり、和歌はもとより儒教・仏教にまで造詣が深かったと伝えられている」。
「(豊臣秀吉から)一度、堺に蟄居を命ぜられた利休が、慌ただしく聚楽第の屋敷を出て、京から下った際に、その舟本(船着場)に師を見送ったのは、三斎と古田織部の2人だけであった」。
「三斎こそが『七哲』の中で、もっとも利休に目をかけられた高弟ではなかったか、と思われてならない。加えて三斎は、無条件に師を慕い、その茶風を世にもっとも長く、直接に伝えた功労者といえよう。あわせて三斎の偉大さは、雑談茶話を世に多く残したことであろう。父譲りの豊かな教養が、古典を尊びながら語られることで、利休の目指した茶の湯はより明解になった」。
キリシタン大名として知られる高山右近。「筆者は右近の茶の湯は、信仰の手段であったように思われる。・・・右近にとって、信仰と茶の湯は重なり合うものであった。『日本教会史』に拠れば、彼は数寄が道徳と隠遁のための、大きな助けとなる、悟りに繋がる、という旨のことを述べていた」。
「織部好み」と呼ばれる奇抜・斬新な作風で知られる古田織部。「胆力の塊のような、この博多の豪商を驚かせた茶人こそ、秀吉の死から大坂の陣のわずかな期間、一世を風靡した茶人・織部であった。筆者はこの茶人こそが、今日『茶聖』とまで崇められている利休のある意味、後継者だったのではないか、と考えてきた」。
「天正19年2月13日、利休は秀吉の怒りを買い、京都の葭屋町の屋敷で切腹して果てた。このおり失意の師を淀まで見送ったのが、細川三斎と古田織部の2人であった」。
「筆者は(徳川)家康が織部の、文化的影響力(公卿・大名を含む幅広い人脈)を恐れて、この芸術家を抹消しようとしたのだと考えてきた。『新しい時代に、織部の茶の湯はそぐわない、むしろ幕藩体制を批判するものとなる』との思いを、家康は抱いていたのではあるまいか。利休に対して秀吉がおこなったことと同じことが、ここで再現される。織部はこのおり、(謀叛の嫌疑に)申し開きを何一つせず、72歳(73歳とも)の生涯を切腹で閉じた」。
「織部の探求心、執着心は開拓者の精神といってよかった。一方で、茶の湯の知識(大きくは教養)に欠けたところがあったのかもしれない。しかし、時代精神の先取り、『作意』は群を抜いていた。織部の作風は景気(勢い、元気、人気)があった。それが胴部を捻じ曲げたような、デフォルメ(変形)した沓型茶碗となる。茶室にも華やかな開放感を求め、小間の茶室の息苦しさから、茶室を出て『鎖の間』や書院での茶の湯を試みている。時代の潮流でいう『かぶき』の精神が織部の茶の湯にはみてとれた。『数寄ト云ハ(人と)違而スル』ことだと考えれば、織部は上手となり、あくまでも利休の作風を離れたくない、との見解からみれば下手ということになろうか」。
織田信長の13歳年下の弟・織田有楽。「秀吉の前で利休は有楽への伝授をおこなったが、秀吉が退出してのち、利休は有楽を呼び止め、さらなる口伝を密かに伝えたともいう。『貞要集』に拠れば、『習のなきを台子の極意とする』ということであり、定められた形式的な伝授を超えて、茶人としての創意工夫が大切である、と利休は教えたという。これはおそらく、有楽の修行や実力を見定めて、あとはご自由にやられたがいい、とその茶の湯の水準を認めたように思われる。その証左に、有楽の茶は利休とは異なる個性を発揮するようになり、やがて有楽は利休の極小の茶室を批判するようになる。『二畳半一畳半などは、客を苦しめるに似たり』(『喫茶織有伝』)」。