鎖国時代の出島の遊女とオランダ商館員、そして、両者を取り持つ通訳・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1174)】
あちこちで、サルスベリのさまざまな色合いの花が咲いています。ダリアの赤い花、ハイビスカスの赤い花、橙色の花が目を惹きます。因みに、本日の歩数は10,989でした。
閑話休題、『出島遊女と阿蘭陀通詞――日蘭交流の陰の立役者』(片桐一男著、勉誠出版)は、鎖国時代の出島の遊女と阿蘭陀(オランダ)通詞(日本人通訳)にスポットを当てた珍しい書です。
寛永18(1641)年から幕末の開国までの218年間、出島は日蘭貿易の窓口として長崎を活況に導きました。「来日のオランダ商館員、貿易業務や管理に当たる長崎奉行所の役人、長崎会所の町役人、出入りの商人、職人。ときには、見分や見物に訪れる諸侯やその従者。伝(つて)をたどって入り込む遊学の徒などの顔もみられた」。
「若くて元気な出島の独身オランダ商館員にとって、遊女の来島がいかに必要なことであったか。それを許した長崎奉行、ひいては幕府にとっても遊女の存在は重要なものであったことが明確となった。日蘭貿易の陰の支え手が遊女と通詞であったことが明確となった」。
「出島行きの遊女はオランダ語を話す国際人であったのである」。読み書きはともかく、オランダ語の会話で意思疎通を図ることはできたのです。
「身の廻りの世話をしてくれて、夜も一緒に居てくれる遊女たち。可愛くてしかたがない。やきもきさせられる小悪魔たち。オランダ商館員たちは手紙を送り、いろいろなプレゼントをしている。遊女もせっせと手紙を書いていた」。
「だから、カピタン(商館長)・ドゥーフに道富丈吉と名付けた混血の男児が出来、出島医師シーボルトと(遊女)お滝の間にお稲という混血の女児が生まれたのである。ブロムホフがカピタンの頃の荷蔵役の商館員にも『娘』(混血児)のいたことが」明らかになっています。
「遊女の手紙は日本に遺っていないといわれてきた。ところが、なんと、オランダの国立文書館に(カピタン・ブロムホフ宛ての)100通にも近い遊女の手紙が保存されていたのである」。これらの手紙――遊女が書いた日本語に通詞がオランダ語を添えている――が、多数、紹介・解読されています。
馴染みの遊女が他のオランダ人のもとへ行ったことで、ブロムホフが立腹します。それに対して謝り、機嫌を直してほしいと訴える遊女の手紙も含まれています。
逆に、他の遊女を連れて楽しそうに帰っていったブロムホフの姿を見てしまった遊女が、焼き餅を焼いて送った手紙もあります。「嫉妬の気持ちおさえがたく、このような一文を認めて、使いの者に持たせたのであろう。それでも、今後のことがあるから、ぐっと心をおさえて、『まずはあらあらかしく』と結んでいる。遊女の心のつらさ、遊女のしたたかさが垣間みられる」。
これらの手紙の中で、遊女の抱え主がカピタンに出した遊女の揚げ代の請求書が目を惹きます。これによると、「カピタン・ブロムホフは1ヵ月30日のうち27日間、商館員バウフェルは30日間まるまる遊女をそば近くに呼び入れていたのである。これによって、出島のオランダ商館におけるオランダ商館員のそばには、毎日、遊女がいたことがわかる」。
「出島のカピタンと商館員のところへ、呼ばれて行く、遊女たち同士の間で、いろいろ噂が立ったり、中傷しあったり、僻んだり、自慢したり、落ち込んだり、これらのことが生ずるのは日常茶飯事のことであったと思われる」。
当時の出島の日常の実態が生き生きと伝わってくる一冊です。