武士は、貴族が武装して始まったものだったんだって・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1239)】
あちこちで、ヒガンバナが咲いています。タマスダレが白い花を咲かせています。モミジアオイが群生しています。我が家に毎晩やって来るニホンヤモリはアクロバティックな動きで飽きさせません。因みに、本日の歩数は10,804でした。
閑話休題、日本史にある程度通じている人は、『古代史の思い込みに挑む』(松尾光著、笠間書院)に、何度も、えっと驚かされることでしょう。
日本史の「古代」は、世界史の「中世」に当たるというではありませんか。「12世紀第4四半期までを古代史とするわが国の常識的な時代区分は、けっして世界の常識でない。むしろ世界的には孤立した、ごくごく特殊な時代認識である。ヨーロッパ史では、西ローマ帝国の領域内にゲルマン民族が侵入し、殻らが東ゴート・西ゴート・フランク王国などをつぎつぎ建てたために帝国が崩壊する。西ローマ帝国が滅亡した476年以降を中世とし、それ以前を古代と区分してきた。つまり古代と中世の境目は、5世紀にある。この歴史的な時代区分論は、もちろん東洋史・中国史に影響した」。
武士は、貴族社会の外部で誕生したのではなく、貴族自身が武装化したものであったというのです。「貴族と対立するものとして武士が存在し、下位の武士がやがて貴族の力を凌駕する。あるいは地方の混乱に乗じて武装してときには荒くれ者とも呼ばれようとまた反社会的な勢力ともいわれようと地元に独自の実力支配を打ち樹てて集団的武力を蓄えて台頭してきた武士が、都にいて政権を握っていた貴族を包囲して押さえ込み、ついに彼らに打ち克って武士を国家の頂点とするあたらしい社会を造り上げた。そういうのが時代の趨勢・流れだった、と諒解してきた。貴族と武士は対立概念で捉えられ、武士が階級闘争を勝ち上がった。そういう構図で考えられた。マルクス主義的な階級闘争史観が、その先見的に存在した論理が、時代の境目をそのように描かせたのである」。
「しかし事実は、そうでなかった。元木泰雄氏著『河内源氏――頼朝を生んだ武士本流』(元木泰雄著、中公新書)によれば、武士になったのは五位以上の位階を帯びた貴族本人だったのだ」。武士は、れっきとした貴族の一員だったのです。貴族が時代に応じて武装したものが武士であり、そもそも貴族と対立する存在ではなかったのです。
武士が誕生した背景については、こう説明されています。「おそらく平安時代に貴族の数が増え過ぎ、五位以上だから『特権階級にいる』などともはや自覚できなかった。政権中枢には高度に固定化したエリート集団が別に存在していて、五位の貴族層にいることでは社会の特権階級にいるとの自覚など持てなくなっていた。そういうことであろう」。
個人的に関心があることが記されています。武家政権を樹立した源頼朝の祖父・源為義について、「もともと為義はかなり未熟でかつ粗暴な人であった」。また、頼朝の父・源義朝については、「嫡子だった義朝は、父・兄弟の間で孤立していた。父から廃嫡されただけでなく、弟たちも義朝一家を毛嫌いした。『保元物語』によれば、(義朝の弟・源)頼仲は『義朝は狭量で自分だけの栄達を遂げようとする』と評している」。このDNAが息子の頼朝に受け継がれたのかもしれませんね。
しばしば並び称される『日本書紀』と『古事記』だが、両者に対する人々の認知度には相当な差があったと書かれています。「『日本書紀』はつとにその存在を知られていたが、『古事記』は存在自体が知られていなかった。これを古代史書として注目させたのはひとえに本居宣長著『古事記伝』(44巻、寛政10<1798>年成立)の刊行によるもので、35年の歳月を費やした彼の紹介と精密な注釈によって一躍価値を高め、記紀と称されて古代史書の双璧とされるほどの地位を確立した。中世までは神道家たちの間でなら知られていたようだが、一般の人にとって『古事記』は無名だった」。