イングランド好き、田園好きには堪らないイングランド訪問記・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1264)】
散策中、さまざまな色合いの実を付けているノブドウを見つけました。これらの色は寄生虫が引き起こす虫癭(ちゅうえい。虫瘤<むしこぶ>)によるものという説があるが、詳細は不明です。コムラサキが紫色の実をぎっしりと付けています。フウセンカズラの緑色の実と茶色みを帯びた実が混在しています。因みに、本日の歩数は10,942でした。
閑話休題、ヨーロッパは旅行で訪れると楽しい所が多いが、私が住みたいと思ったのは、イングランドの小川が緩やかに流れる緑に恵まれた田園地帯でした。
『田園のイングランド――歴史と文学でめぐる四八景』(宇野毅・市川仁・石原孝哉・伊澤東一編著、彩流社)では、ロンドン近郊、イングランド南東部、南西部、東部、中部、北部の48カ所が取り上げられています。
懐かしいウィンザーは、このように紹介されています。「(ウィンザー)城の南端に位置するサウス・ウィングに向かって、数キロ先からロング・ウォークという一直線の道が続いている。道の両脇は広い芝生そして並木になっており、散歩には最適である。この道に沿ってしばらく歩き、遠くから眺めるウィンザー城もまた美しい。道沿いの並木を越えるとそこはもうウィンザーの田園である。道から少し外れて田園風景を楽しむのもいいだろう。・・・辺り一帯がテムズ川のほとりの緑豊かな田園地帯であり、イングリッシュ・カントリーサイドを堪能できる」。
ウィンストン・チャーチルの生家・ブレナム宮殿に関して、興味深いことが書かれています。ウィンストンの父、ランドルフ・チャーチルは第7代マールバラ公爵の三男で、母のジャネット・ジェロームはアメリカ人富豪の次女でした。「ランドルフ卿の父は、身分の違いを理由に初めこの結婚に反対していたので、1874年4月の結婚まで時間を要した。チャーチルは同年11月30日に生まれているので、2か月の早産ということになるが、状況を勘案すれば、現実的には、チャーチルの両親は当時の厳しいヴィクトリア朝の道徳的規律を破って、フライングしたのであった」。
日本でも評判を取った連続テレビ・ドラマ『ダウントン・アビー』の舞台となったカントリー・ハウスのハイクレア・カースル(その敷地は東京ディズニーランド8個分)にまつわる裏話が綴られています。ハイクレア・カースルの当主であった第5代伯爵ジョージ・ハーバートは、1921年にツタンカーメンの墓を発見したエジプト学者ハワード・カーターの後援者として知られています。「『ダウントン・アビー』でも時代の変化と共に、屋敷の維持管理が難しくなり、農地や牧場の管理も若い世代が新しい感覚で経営に乗り出すのだが、19世紀末頃から、アメリカ人富豪の娘との婚姻により持ちこたえたカントリー・ハウスも多かったようである。『ダウントン・アビー』の現伯爵夫人であるコーラはこの例である。娘を貴族に嫁がせたいアメリカの富豪と、妻の持参金でなんとか屋敷を維持したいイギリス貴族の思惑が合致し、200人余りのアメリカ人女性が貴族の家系に加わったという」。
ノルマン人の侵略地・ヘイスティングズの記述のおかげで、疑問に思っていたイギリス歴史の転換点の謎が明らかになりました。「時に1066年10月14日早朝、ハロルド王に率いられたイングランド軍約7000に対し、フランス、ノルマンディより攻め上ったウィリアムの軍勢は約1万で対峙し、今まさにイングランドを征服しようとしていた。イングランドのエドワード証聖王の死後、王位継承を約束されていたと主張するノルマンディ公ウィリアムが、アングロ・サクソンの貴族により王に選出されたハロルドの王位継承に異議を唱え、イングランドに進軍したのである。・・・イングランド南東部のヘイスティングズ近郊で行なわれたこの戦いは、イングランドの歴史における天下分け目の戦いといえる。戦いの結果を受けて、ノルマンディ公ウィリアムは同年のクリスマスにイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。これにより5世紀中頃以降続いていたアングロ・サクソン王朝の支配に終止符が打たれ、ノルマン王朝が成立したのである。この事件はノルマン・コンクエストとして知られ、イギリス史上最大の出来事として、1066年という年号と共に、イギリス人なら知らない人はいない」。
伝説のロビン・フッドの舞台・ノッティンガム、『嵐が丘』の舞台・ハワースについても、いろいろと学ぶことができました。
イングランド好き、田園好きには堪らない一冊です。