ロシア帝国、オスマン帝国、大清帝国、ティムール・ムガル連続帝国のいずれもが、モンゴル帝国の後継国家だったとは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1286)】
先日に続き、10羽ほどのオナガの群れに出くわすという幸運に恵まれました。カツラの茶色い落ち葉は、仄かに醤油のような香りがします。因みに、本日の歩数は14,337でした。
閑話休題、これまで、杉山正明のモンゴルに関する著作には目を見開かされてきたが、『モンゴル帝国と長いその後――興亡の世界史』(杉山正明著、講談社学術文庫)も期待を裏切らぬ内容でした。
「20世紀のはじめに一斉に消え去った諸帝国は、実はいずれもモンゴル帝国とその時代に、それぞれなんらかの起源・由来をもっている」。
その第1は、ロシア帝国です。「13世紀、バトゥひきいるモンゴル西征軍が到来し、それ以後、ロシアはモンゴル世界帝国を構成するジョチ・ウルス(誤解にもとづく通称はキプチャク・ハン国)の属領となった。それから長い共存の時をへて、やがて主従は逆転してゆく」。下剋上的に勢力拡大を果たしたモスクワ国家が、多種族・多地域・多文化を撚り合わせた巨大な複合体であるロシア帝国へと成り上がっていったのです。「ロシア帝国はモンゴル帝国から生まれ、モンゴル支配を裏返しにするかたちで肥大化したのであった」。
第2は、オスマン帝国です。「オスマン帝国もまた、モンゴル世界帝国のうち、イラン中東地域をおさえたフレグ・ウルス(通称イル・ハン国)とかかわる」。フレグ・ウルスの勢力圏の片隅に芽生えたテュルク系のささやかな集団が小さな地歩を築きます。そのスルターンであった人物が、オスマン帝国の開祖であったとされています。
第3は、大清帝国です、「ダイチン・グルン(=大清帝国)は、モンゴル世界帝国の宗主国たる大元ウルス(中国風の通称は元朝)の250年をへだてた『後継国家』であった。・・・(第2代のホンタイジは)チンギス裔たる内モンゴル王侯たちの推戴をうけて大元ウルスの帝位をひきつぐものとして即位した。そのとき、おそらく『ダイオン(大元)・ウルス』になぞらえて『ダイチン・グルン』をあらたな国号としたのである。大清国は、その後の大発展もふくめて、一貫して名実ともに満蒙連合政権でありつづけた」。
第4は、ティムール・ムガル連続帝国です。「モンゴル帝国のうち、中央アジアをおさえたチャガタイ・ウルスの西方部分から、それを再編するかたちでティムール帝国が生まれる。そのティムール帝国は1500年、本拠を失ってインド亜大陸へと南下し、第二次ティムール朝たるムガル帝国となる。ムガルとはモンゴルのことである」。
モンゴル帝国と同時期に存在した帝国が神聖ローマ帝国です。「(ハプスブルク家とホーエンツォレルン家は)中世以来の神聖ローマ帝国という名のまことに穏やかきわまる『帝域』に端を発している。ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝の位を最初に手に入れたのは、1273年のこと。かたや、ホーエンツォレルン家は14世紀にその名をあらわし、1363年には帝国諸侯身分を獲得して、浮上へのきっかけとする。・・・神聖ローマなる独特の『かたまり』にそれぞれ起縁する両王家は、以後ながらくの浮沈・変転・相克をかさね、さらには『ドイツ』なるものの行方・ありかたをめぐる対立のすえに、別々の帝国として歩みだして半世紀たらず、ともどもに1918年に息絶えたのであった」。息絶えたのは、ハプスブルク家の皇帝を戴くオーストリア・ハンガリー帝国と、ホーエンツォレルン家の皇帝を戴くドイツ帝国です。
「以上をふりかえると、第一次大戦とその前後は、実はモンゴル帝国とその時代以来、ないしは間接にせよ、ともかくその色濃い影響下にあった諸帝国と残影たちが、一挙に命脈をたたれたときなのであった。いいかえれば、モンゴル以後の『帝国史』の大半は、ひとまずここで総決算されたのである」。
しかし、現代史も過去の歴史からの延長戦上にあるのです。「すなわち、ロシア帝国はソ連から現ロシア連邦に、オスマン帝国は現在も混沌たるままの中東に、ダイチン・グルン帝国は中華民国をへて現中華人民共和国に、ティムール・ムガル連続帝国は現インド、パキスタン、アフガニスタン、中央アジア諸国という不安定な枠組みに、そして『ドイツ国民による神聖ローマ帝国』は現ドイツさらにはEU全体に、それぞれ正負両方の影を濃密に落として、今という時代がつきすすんでいる。『帝国』めいたかたちを保持するもの、混迷のなかに大いなる変貌の可能性を秘めるもの――。いずれにしても『帝国の記憶』は、現在と今後への見逃せない動向でありつづけている」。
ロシア帝国、オスマン帝国、大清帝国、ティムール・ムガル連続帝国のいずれもが、モンゴル帝国の後継国家だったという思いがけない指摘に、目から鱗が落ちました。