北原白秋を長年支えた妻・菊子の生涯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1323)】
あちこちで、黄葉、紅葉を楽しみました。カキの実が鈴生りになっています。キノミセンリョウが黄色い実を付けています。我が家の庭の片隅のマンリョウの実が真っ赤に色づいています。因みに、本日の歩数は10,246でした。
閑話休題、『非凡なる凡婦 白秋の妻菊子』(北原東代著、春秋社)は、北原白秋の3番目の妻・菊子の生涯を、白秋と菊子の間に生まれた長男・隆太郎の妻・東代が綴ったものです。「詩人、歌人の白秋の後半生に、文字通り身を粉にして尽くし。白秋没後も常に白秋の『霊』と共に生きていたような妻菊子がいかなる人であったか、本書を通して御理解に資することができれば幸いである」。
「白秋が最初の妻となる松下俊子と事実上の恋愛関係に陥るのは、知り合って1年7ヶ月後の1912年4月末である――俊子の、夫松下と別れて2、3日後に郷里に帰るからお会いしたいとの手紙を受け取った白秋は、1度目は合いに行って無事に別れている。その後、また俊子が『もう一度お会いしたい』との手紙を寄越し、白秋は再び会いに行くのだが、2度目の時はあちこち歩き廻っている内に電車が無くなり、宿屋に行って飲酒したため酔いが廻って理性が翳り、ついに特別な関係に陥った。このことが、後日、松下に告訴されるという、人生最大の屈辱を味わう『事件』の端緒となった」。白秋が姦通罪で告訴され、未決監に拘置された経緯は、このようなことだったのですね。
「(白秋は)最初の妻俊子とは正味1年、2度目の妻章子とは4年、3度目の妻菊子とは21年半、共に暮らした」。
「白秋と菊子が初めて出会った時、白秋は35歳、菊子は31歳で、菊子は未婚だが、白秋には2度の離婚歴があった」。
菊子の新婚時代の日記にH(白秋)が登場します。「藤館滞在の三上於菟吉氏に招待されて晩餐饗応される。Hよろこんで山を下る。後夜、雨の音に驚きて山下まで迎へに出る。電話二度かけても故意に通じてもらへず三時間ガイドに立ち、まちくらす。夜半二時自働車は遊子の群をはこび深夜横行す。かなしい泥酔者は私のHであつた」。
「白秋が徹夜で執筆する時は、常に傍に居て、『原稿を清書したり、お夜食をこしらえたりしていました』と、私は菊子から一度ならず聞いた」。
「(菊子の日記から)菊子には新婚生活が過酷であったと推察される。連日の来客や原稿催促のため白秋居に泊まりこむ編集者の接待、徹夜で執筆する白秋に付き添っての世話、そして時折の白秋との齟齬などで、身心の過労による発熱と思われるが、精魂尽き果てたような状態に近かったことは、『此儘死が引きとつてくれたらと思ひ願へたほど』との異常な一行に滲んでいる」。「だが、実母より受け継いだ宗教心から、菊子はよく内省し、自己を律し、耐え、幸運にも身ごもった。そして、『小さな魂』の成長と共に、孤独感も次第に薄れてゆき、家庭の礎も磐石となっていったのである」。
「1931、2年頃、菊子は『鷗外全集』やジェームス・ジョイスの長編小説『ユリシーズ』を読んでいたそうだ。白秋の最も尊敬する師・鷗外の『全集』を菊子が読むのはよく分かるが、難解と評されるジョイスの『ユリシーズ』を読んでいたとは、ちょっと驚いた」。
「白秋が有志と共に1935(昭和10)年4月に結成した『多磨短歌会』は、同年6月にその機関誌『多磨』創刊号を刊行し、次第に斎藤茂吉、土屋文明が率いる大結社『アララギ』に拮抗する勢力となった。だが、創刊より7年後の1942年11月2日に白秋は享年57歳で病死した」。
白秋の陰には、心を尽くして白秋を支えた妻の存在があったのです。