本書は、「戦争ができる国」の推進者にとって頂門の一針だ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1439)】
東京の新宿御苑の大温室に一歩足を踏み入れると、そこはもう別世界。タビビトノキ、テンリュウ、ヒスイカズラ、タベブイア・クリソトリカ(コガネノウゼン)、ヒョウタンウツボカズラ、ミッキーマウスノキ、パパイア、サンジャクバナナ、タマツヅリ、カエンボク、オオベニゴウカン、ナンヨウザクラ、ウナズキヒメフヨウ、フィロデンドロン・ウェルコスム、サンタンカ、ムニンタツナミソウ、アブチロン、ネッタイセイ(熱帯性)スイレン・ミスター・マーチン・ランディックをカメラに収めました。
閑話休題、『戦慄の記録 インパール』(NHKスペシャル取材班著、岩波書店)は、文字どおり、戦慄の書です。
「1942(昭和17)年夏、東京・市ヶ谷台にある大本営陸軍部の参謀たちは、地図を前に壮大な構想を描いていた。同年6月のミッドウェーにおける海戦で大敗を喫したとはいえ、日本軍は太平洋から東南アジアまで、広大な範囲を勢力下に収めていた。西に目を向ければ、イギリス領だったビルマ(現ミャンマー連邦共和国)全土を予想を上回る速さで制圧していた。参謀たちは、この勢いのままに、インド北東部に進攻できないかと考えていたのである。その目的は、連合国が中国の蒋介石を支援する輸送路『援蒋ルート』の遮断であった」。
「『二一号作戦』と名付けられたこの構想の主力として期待されたのが、ビルマ方面を担当する第一五軍隷下の第一八師団であった。師団長は牟田口廉也中将である。牟田口中将は、強気の作戦指導で知られた猛将であった。1937(昭和12)年の盧溝橋事件の際は、現地の連隊長であったが、中国軍への攻撃に逡巡する空気もある中で、『軍人が敵から撃たれながら、如何したらよいかなぞと、聞く奴があるか』と攻撃を命じた。まさしく、日中全面戦争への引き金を引いた人物であった」。
「野心に燃えた(インパール作戦の)牟田口司令官は『インパールは天長節(昭和天皇の誕生日。4月29日)までには必ず占領してご覧にいれます』と口癖のように述べていたという。奇妙なことに気づく。天長節までとなれば、携行する食糧は3週間では済まない。倍の6週間から7週間分必要になる。このズレを牟田口司令官はどう考えていたのか。戦後の証言が残っている。『補給が至難なる作戦においては特に糧秣、弾薬、兵器等いわゆる<敵の糧による>ということが絶対に必要である。放胆な作戦であればあるほど危険はつきものである』。このような無謀な作戦が、わずか七十数年前に現実に実行されたのである。慄然とするほかない」。
「戦没者名簿を(NHKスペシャル『戦慄の記録 インパール』の)放送直前まで探し出し、最終的に13,577人の記録が集まった。3万人と言われる死者の半数にも及ばないが、全体像を類推することは可能なのではないかと考えた。おびただしい死の記録が浮かび上がらせたのは、かろうじて命をつなぎ止めた兵さえ放置する、無責任極まりない軍の体質であった。インパールへ向けて進撃中に戦死した人よりも、撤退するさなかに亡くなった人の方が多かったのである。13,577人の6割にあたる人々が、作戦が中止となった7月以降に亡くなっていた。そのほとんどは『病死』であった。この中に、相当数の『餓死』が含まれているとみていいだろう。痛ましかったのは、チンドウィン河周辺で亡くなっていた人が、全体の3割にも及んでいたことである。飢餓と疫病で憔悴し、敵の追撃にもさらされながら、アラカン山脈を抜けた兵士が目にしたのは、荒れ狂う雨期のチンドウィン河であった。渡れぬ大河を前に力尽きたのか、帰りたい一心で渡河を試みてのみ込まれていったのか・・・。そのとき兵士が抱いた思いを想像すべくもない。ただ、胸が締め付けられる」。
「この作戦を遂行した大日本帝国陸軍は、戦闘集団であるとともに、首相をはじめ多くの閣僚を輩出する政治集団であり、数百万の兵と国家財政の8割前後を差配する官僚集団であった。そのエリート集団のありようを、解任された第三一師団の佐藤幸徳師団長は次のように糾弾している。『統帥もここに至っては完全にその尊厳を失い、すべて部下に対する責任転嫁と上司に対する責任免除のため存在しあるにすぎざるものと断ぜざるを得ず』。本書を執筆中、公文書の『改竄』を、中央からの指示によって担わされることになった地方の官僚が、自ら命を絶つという痛ましい出来事があった。70年以上前に発せられた佐藤師団長の言葉は、現代にも生きる私たちにも、生々しい現実感を伴って重く響いてくる。私たちの社会は、インパール作戦がもたらした3万の死から何を学び取るべきなのだろうか」。佐藤幸徳師団長とは、前線から「弾薬を送れ」、「食糧を送れ」と再三要求したのに、その要求を泣き言だと決めつけ、食わず飲まずでも、弾がなくても戦えと応じるばかりの牟田口司令官に反抗して、独断退却を敢行し、解任された人物です。師団長が独断撤退する事態は、日本陸軍始まって以来のことで、「抗命事件」として陸軍を揺るがしました。
インパール作戦は、●「責任なき」作戦認可→●度外視された「兵站」→●消耗する兵士たち――軽視されてゆく「命」→●遥かなるインパール――総攻撃の果てに→●遅れた「作戦中止」→●地獄の撤退路――白骨街道で何があったのか→●責任をとらなかった指導者たち――という経過を辿ります。
「(1944<昭和19>年)5月16日、東條(英機)参謀総長は、現実を覆い隠し、天皇にこう奏上した。『インパール方面の作戦は昨今稍々停滞が御在いまして前途必ずしも楽観を許さないので御在いまするが、幸ひ北緬(ビルマ北部)方面の戦況は、前に申上げました如く一応大なる不安がない状況で御在いますので、現下に於ける作戦指導と致しましては、剛毅不屈万策を尽して既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます』。この頃の各戦線は、いずれもほとんど戦力の限界に達しており、反撃の余力もなくなっていた。さらに、最も恐れていた雨期が始まろうとしていた」。東條というのは、天皇に嘘の報告をする度し難い人物です。
「1944年7月1日、大本営はようやくインパール作戦の中止を決定した。作戦開始からすでに4カ月が経っていた。しかし、兵士たちにとっての本当の地獄はこの後に始まる。・・・中止命令を受けた兵士たちは、ビルマに向けてジャングルの中を撤退することを余儀なくされた。しかしその時点ですでに武器・弾薬、食糧も尽き、多くの者がマラリアやアメーバ赤痢など熱帯地方特有の疫病に罹患していた。雨期の激しい雨の中、イギリス軍の執拗な追撃を受けながらの撤退は悲惨を極めた。兵士は次々に倒れ、撤退路には日本兵の死体が積み重なっていく。雨が遺体の腐敗を進め、数日で骨にしたという。自らの運命を呪った兵士たちは、こうした撤退路を『白骨街道』と呼んだ」。「(何とか生き延びた兵士は)生きながら蛆にたかられる戦友の姿を目撃した。『倒れとってな、それでもう、死んどるかって見てみたら、目とか耳とか口が開いた所に、蛆虫がいっぱいわいとるんやな。よう見ていたら、まだ死んでない、生きとる。心臓、バクバクしてるっていうたことが、何回もあったわいな』」。何とも凄まじい惨状ではありませんか。
「太平洋戦争で、最も無謀と言われるインパール作戦。戦死者はおよそ3万。傷病者は4万とも言われている。この事実と、軍の上層部は、どう向き合ったのか。インパール作戦に関わった陸軍の指導者たちは、ほとんどその責任を問われることはなかった。インパール作戦を認可した当時の参謀総長、杉山元元帥。冷静な分析よりも組織内の人間関係を優先して作戦を認可した杉山元帥は、東條の後を継いだ小磯国昭内閣で陸軍大臣になった。南方軍総司令官の寺内寿一元帥。『牟田口が信念をもってやるというなら思うようにやらせたらよいでないか』と作戦を認可した寺内元帥は、敗戦まで司令官の座にとどまり続けた。ビルマ方面軍司令官の河辺正三中将。東條首相の打診を受けて作戦を後押しし、戦況の悪化を把握しながら、中止の決断もしなかった。河辺中将は陸軍大将に栄進し、要職を歴任した。牟田口廉也中将は陸軍予科士官学校長に任命された。敗軍の将が幹部教育を担うという陸軍の人事に対して、ビルマ方面軍・後勝参謀は、わが耳を疑うほどの驚きであったと、回想録に書き残している。『インパールでは、3師団長は責を負うて罷免され、アラカンの山中に万骨を枯らした将軍が、国軍の魂を受けつぐ将校生徒の教育に当たるとは、戦争末期の国軍人事も、地におちたものと思われてならなかった』」。
敢えて繰り返すが、これは戦慄の書です。本書は、「戦争ができる国」の推進者にとって頂門の一針です。