ラテンアメリカ文学は、情熱的で、ひっちゃかめっちゃかで、何でもありの万華鏡みたいだ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1479)】
今日は、昆虫少年ならぬ昆虫老年・榎戸にとって、特別な一日になりました。日本のチョウで私が一番好きなのはアオスジアゲハです。千葉・柏の「柏の葉公園」のハーブ園を訪れたところ、チャイヴの花にアオスジアゲハが6頭も群がっているではありませんか。1時間半、夢中になって撮り捲った写真が何と791枚。皿のような苞の上に花が載っている感じの植物の名を公園センターの女性に尋ねたら、親切にユーフォルビア・ブラックバードと教えてくれました。因みに、本日の歩数は16,393でした。
閑話休題、『20世紀ラテンアメリカ短篇選』(野谷文昭編訳、岩波文庫)に収録されている短篇たちは、私の暮らしとは隔絶した非日常の世界を垣間見せてくれます。
とりわけ印象に残ったのは、アナ・リディア・ベガの『物語の情熱』です。
「なんとも危なっかしい状況だ。破局に向かいつつある夫婦のいる家に人質になった、愛情のもつれから抜け出したばかりの世話の焼ける女流作家、その家には神経の切れかかったもしくはすでに切れてしまった同郷の女性、捕えた旅行者に迫る既婚の狩猟家、聴診器を手にアバンチュールを求めてうずうずしている医者、コンプレックスと嫉妬の固まりの医者の妻、お節介な姑がいるのだ。ベルトラン・ブリエなら命を引き換えにしてでも映画を撮りたいと思うはずの、このやりたい放題、自由競争の共同体の中でただひとり、ムッシュ・ベレーだけが平然として、精神的バランスのとれた人物像を保ち続けている」。
「私」は、同郷・プエルトリコの女友達・ビルマに誘われ、3週間の予定で、ビルマの夫の両親が住むフランス・ピレネーの小さな村を訪れます。そこで、情熱的犯罪を題材に、半ばドキュメンタリー、半ば推理小説という作品の執筆に取り組む女流作家(私)が語る現実世界は、情熱的というか、ひっちゃかめっちゃかというか、何でもありの万華鏡的空間なのです。
盛んに繰り広げられる言葉遊び、時と場所を選ばぬパロディ精神、哄笑を誘うユーモア感覚に富んだ本作には、ラテンのリズムが似合います。
例えば、ビルマの家族は、こんなふうに描かれています。「フランス人に対して私が抱いていたプレハブ仕立ての概念は、呆気なく崩れ去った。こういう問題については大いにソフィスティケートされていて、進歩的で、サルトルとボーヴォワール的なのだろうと、想像していたのに・・・。ビルマの亭主ときたら、赤ん坊とプエルトリコの愛悪のマッチョを足して二で割ったみたいな奴だった。あのベニスのムーア人オセロをコーカソイドにしたこの男は、あらゆる物事、あらゆる人間を疑った。そんな具合だったので、控え目にではあったけれど私が彼の世界に侵入することを許可したのが不思議なくらいだった。しかし事はそれでは済まなかった。底意地の悪い猪狩りの猟師にさらわれたタイノ族の姫君は、その朝私にとても優しくしてくれた。コーヒーポットを手に持つエプロン姿の魔女から、侮辱的な扱いを受けていたのである。『一緒に暮らしてないだけ運がいいわよ』。私は彼女の期待に応えて慰めるように言った」。